コラム | 東京写真記者協会 TOKYO PRESS PHOTOGRAPHERS ASSOCIATION

logo

2月のコラム


(サンスポ・佐藤)

気仙沼 【写真】気仙沼

サッカー日本代表戦 【写真】サッカー日本代表戦

東京・丸ノ内の夜景 【写真】東京・丸ノ内の夜景




《後世に残すパノラマ写真の挑戦》

 東日本大震災からまもなく1年が経とうとしています。この間、報道各社は総力を挙げて大勢の記者やカメラマンを現地に派遣し取材を続けてきました。家屋を飲み込んで押しよせてくる津波、壊滅した街、かけがえのない家族を亡くし、途方にくれ肩をおとす人々…。被災した方々には辛く悲しい記憶ですが、私たちが取材・報道した多くの写真や映像は、「記録」として残り、未来に語り継ぐ災害史の貴重な資料となるはずです。
 
 ネットの出現により、ここ数年、新聞各社は従来のスタイルとは異なるウェブサイトでの速報や映像報道に力を入れ始めています。東日本大震災の報道では、紙面で収容しきれなかった写真や動画を大量にアップすることができ、各社とも多角的に未曾有の大災害を伝えることができたと思います。紙数の都合で掲載できなかった写真も、今ではサイト上で幅広く展開できる時代になりました。
 
 産経新聞写真報道局ではマイクロソフト社とともに、写真の持つ力と新しい映像表現に挑戦し、写真好きの人たちと交流の場をつくろう、との思いから2011年1月に『産経フォト』を立ち上げました。サイト運営は、産経新聞やサンケイスポーツのデスクを長く務めた経験豊富なベテランたち。ネットに舞台を移し、紙媒体とは違う視点や感覚で自社取材や通信社の配信する良質な写真を選択し、ニュース、トピックス、フォトエッセイなどのカテゴリーに類別編集し、「魅せる・語る・読む写真」としてユーザーに発信しています。また、フリーの写真家に発表の場を提供し、アマチュアカメラマンのために写真コンテストを企画するなど、写真に特化したユニークなサイトを目ざしてコンテンツの充実に努めています。
 
 サイトの立ち上げから熱心なユーザーの間で評判になっているのが、マウスで自由に視点移動ができてパソコン画面上で360°すべてが見られる球体写真のシリーズ企画「パノラマ写真館」です。産経フォトでは震災報道においても被災地の360°パノラマ写真を積極的にアップし、国内だけでなく世界中からも注目を集めました。これまでに瓦礫に覆われた被災地、避難所、福島第一原発から1キロ地点、被災地の変化をとらえた定点観測など130枚以上を公開してきました。臨場感ある被災地のパノラマ写真は、アメリカやロシア、シンガポール、ドイツ、インドなど各国のMSNサイトが転載し、ドイツのシュピーゲル誌やオーストラリアのヘラルド・サン紙など有力な外国メディアも自社サイトにアップするなど大きな反響を呼びました。
 
 実はこの震災パノラマは、当初現場の取材者には抵抗感がありました。マウスで自由に視点移動し「遊ぶような感覚」で画面を見るパノラマ写真は、「被災現場にはそぐわない。不謹慎なのでは」との声が局内の一部に上がり議論になったからです。しかし、非難どころか「現場に立っている感覚だ」、「現地の被災状況が本当によくわかる」という好意的な多くの声を頂いたのは、通常の紙面取材の合間を縫ってパノラマ撮影を続けたカメラマンたちの大きな励みになりました。静止画の新聞写真だけでは伝えきれない震災パノラマは、ネット時代に生きる写真記者が後世に残す貴重な記録になると信じています。
 
 Webサイト  http://photo.sankei.jp.msn.com/ または『産経フォト』で検索
 産経フォトでは「硫黄島の壕の中」や「組閣取材時の首相官邸」、「ジャンボ機のコックピット」、「東京スカイツリー」、「しんかい6500の船内」、「南極」など硬軟取り混ぜたさまざまなジャンルのパノラマ写真を700枚以上公開しています。

産経新聞社写真報道局
サンケイスポーツ写真部長・佐藤一典





1月コラム・年頭挨拶


(事務局・花井)



 新しい年があけました。今なお東日本大震災で被災され、苦しみ、不自由な生活を続けている方々に心よりお見舞い申し上げます。
 
 展示の約4割を占める東日本大震災写真を中心に約300点を展示した「2011年報道写真展」(日本橋三越本店11年12月16日〜25日)は、大勢の人たちに見て頂きました。日本橋三越調べでは、昨年より1万人多い約5万人を超える人たちが入場しました。連日あまりの多さに大震災がいかに高い関心事であるか、またこの報道写真展が多くの皆さまに受け入れられ、定着したと改めて感激しました。受付に置いた「ユニセフ募金」には、期間中に、何と36万円もの募金を頂きました。感謝に堪えません。全額を日本ユニセフ協会に寄付させていただきました。
 
 報道写真展開場式のテープカットには、新大関琴奨菊関と「なでしこジャパン」の丸山桂里奈選手をお招きしました。新大関は今年のさらなる活躍を約束し、丸山選手はケガを直して一線に戻り、がんばりたいと抱負を語っていました。この報道写真展は、今年1月14日(土)から4月15日(日)まで、横浜市の日本新聞博物館に会場を移して展示されます。
 
 昨年、報道写真展について取り上げた朝日新聞の「天声人語」に「私たちは指先ひとつで、ある一瞬に永遠の命を授けることができる。写真の話しである。シャッターが切られ、ひとたびフレームに納まった表情や景色は、時計の針と同じ速さで遠ざかりながら、過去を語り続ける」。最終章に「被災者らが自筆のメッセージを掲げる『読む写真』がある。子どもたちの小さな決意に、深くうなずいた。『もらった命 たから かんたんに失わないようにがんばって生きよう』。写真は時として、未来も語る」とありました。なるほど。
 
 会場に置かれた「感想ノート」には、さまざまな意見、感想が書かれていました。@毎年見に来ています。今年は東日本大震災ばかりのニュース。来年はロンドンオリンピック、楽しみにしています(男性)A心が痛むほどの写真に心の中で手を合わせました。私も3カ月後、被災地を訪問、写真で見る以上のものでした。カメラマンの心に感謝。B写真の力を実感しました。命懸け一心に撮影された皆様有難う御座います。(高2、女子)C東日本大震災が起きた時の写真を見て私たちも何かできることをして、被災地が復興できたらいいなと思いました。(13歳、中学1年生)D写真はリアルに私達に問うて訴えている。何とかしたい。寒さの中で、さぞ大変と思います。頑張って下さい。応援します!E写真はすごいです。人がその中にいます。すべてを語っている1枚の写真の力はすごいと改めて思います。F写真が伝える現実に胸をうたれた。1日も早く、大好きな東北へ。あの時の三陸へ今、行く決心がようやくつきました。力になれるかわからないけど、行くぜ東北!G写真を業とする者です。最初の「ままへ」の写真を見て、平静を保つので精一杯でした。H朝日の社説で展示会を知り、仙台から参りました。ありがとうございます。自身で見た光景と同じです。I映像では伝わらない瞬間を切り取った報道写真は、胸に迫るものがあり、1枚の写真に涙が出ました。=感想143点から10点の抜粋です。
 
 「歴史が動いた年」と言われた09年、「混迷の政権運営」と言われた10年、「未曽有の大震災」に見舞われた11年、12年は世界同時恐慌危機とか、財政危機、超円高、北朝鮮の行方、福島第一原発の放射能汚染問題など明るさが見えてきません。またロシア、アメリカ、フランス、韓国の大統領選関連、中国の国家主席継承、ひょっとしたら総選挙など「選挙の年」でもあります。その中で、明るい話題としては5月、東京スカイツリーの開業、7月、期待されるロンドン五輪があげられます。
 
 今年も、写真記者たちは「国民の知る権利」に応え、記録して伝える――愚直に、真摯に、忘れることなく続けることが大切だと思います。その記録は「時代の証言」です。権力チェックと同時に弱い立場の人たちの代弁者でもあります。また、質の高い企画ものに見られるように、ひとりの表現者として写真の中から今年も多くのメッセージを発信してくれることを期待しています。

2012年1月   東京写真記者協会
  事務局長・花井尊


12月のコラム


(共同・上妻)

被災直後と3カ月後、半年後の状況。現在との比較写真



《震災取材のフォロー》
 
 先月25日の東京写真記者協会賞の選考会では予想通り、グランプリの協会賞、一般ニュース部門賞、企画部門賞と新聞協会賞を受賞した毎日、NHKの2社は震災関連作品の受賞だった。
 
 今回の災害の大きさは各社とも、発生から定期的に現場や被災者の現状を紙面で大きく取り上げたことにもうかがえる。協会賞に選ばれた読売の「ままへ」も5月に写真ニュースでフォローしている。
 
  共同でもその都度定点で、被災直後と3カ月後、半年後の状況。現在との比較写真を節目に送信した。岩手県大槌町大民宿に乗り上げていた観光船「はまゆり」。宮城県気仙沼市の市街地は地盤沈下によりいまだに冠水が続いている。岩手県大船渡市の市街地ではがれきはほぼ撤去された。宮城県女川町では津波被害を受けたビルの撤去が進んでいる、石巻市がれきが撤去され草の緑が目立つ。(写真は左下から時計回り)
 
 震災半年では「定点観測」に加え、被災直後に取り上げた住民の半年後の現状を比較した写真を連載企画として配信した。各回に写真記者が記事50行、震災直後に撮影した被災者と近況を送信した。内容は水を運ぶ少年、車中生活を続けた一家、福島県いわき市で原発事故から逃げる一家、離島に取り残された双子と再会した母親、母を亡くした女性、震災直後に出産した女性の一家。被災直後に撮影した写真記者が半年後再び訪れ、粘り強く被災者と交渉し、締め切り間際に取材を承諾していただいた方もいた。
 
 この企画を京都府の小学校では掲載された一部紙面を教材に取り上げ、“今、自分にできること、自分がどうできるか”をテーマとした道徳の授業を受けた5、6年生の子どもたちから京都新聞社を通じて手紙が寄せられた。
 「あたりまえのようにくらしている毎日がおくれず、とても悲しい時があったことを知りました」
 「今自分が学校に行けることや、自分の帰るところがあることが本当のしあわせなんだ・・」
 「被災された方が、少しずつ前向きにがんばっておられる姿を見て、私も負けられない・・」と素直な感想が寄せられ、取材者を通じて本人に届けられた。
 
 「今回の子どもたちの取り組みは学校教育での新聞記事活用から生まれ。記事を通じ社会を知る力、考える力、行動力を育てることにも大きな貢献ができたことにもなり、まことによろこばしいことと思います。」との同新聞社読者応答室長からのうれしいコメントも添えられていた。
 
 一方、一見して分かる被災地と違い廃炉まで30年以上といわれる福島第1原発をめぐる状況を来年以降も長期間伝え続ける重い課題を負ったことを忘れてはならない。
 
 共同通信社写真部長
 上妻 聖二





コラム

11月のコラム


(朝日・渡辺)

【写真】9月2日、福島県浪江町の幾世橋小学校の校庭を疾走する牛 【写真】9月2日、福島県浪江町の幾世橋小学校の校庭を疾走する牛



《写真か、動画か》
 今年5月18日スタートした「朝日新聞デジタル」の購読数が10月末、5万件を突破しました。日経そして朝日が先行した有料デジタル版ですが、来春にむけて同業他社の電子版の動きが活発になりそうな気配だといいます。明確な答えや道筋のないデジタル版ですが、従来の紙だけではなくデジタル空間でも存在感を明確にする新しい新聞社の形を目指しています。

 この朝日新聞デジタルにおいて、目玉の一つになっているのが「動画」です。動画は主に写真部員が中心に取材していますが、取材現場で「大きな変革期を迎え始めている」と実感する事例が時折あります。まさに「写真か、動画か」という命題です。ほんの数年前なら考える必要もない命題でしたが、いまは違います。現場を取材する写真記者にひとしきりの葛藤が芽生えています。

 9月はじめ、中堅の写真部員が福島第一原発から半径20キロ以内の立ち入りが禁止されている「警戒区域」への同行取材に入りました。もちろん警戒区域に設定した地元・浪江町長の許可が得られての初めての取材です。「写真も動画もおもしろい映像を撮りたい」という記者魂がうずく現場です。

 「二兎を負う者一兎を得ず」という諺どおり、ベストのシャッターチャンスは一瞬で一度だけ。前夜、取材を想定して「写真も動画もベストを撮ることはできっこない。動きがあり音声もある題材だったら、まずワンカットだけ写真を押さえ、それから即座に動画を撮ろう」と考え、取材方法を思い巡らせたそうです。

 結果は、動画撮影された映像から切り出された写真が朝刊一面に掲載されました。無人となった小学校の校庭を疾走する牛の群れは迫力満点。校庭に響くドドドドッという足音が印象的な動画がデジタル版で扱われました。取材者曰く、「計算して動画で撮ったのならば胸も張れるが、たまたま流し撮り効果で画像が止まった」といい、「牛の疾走は写真で撮るべきだったか」「写真だったらもっとクリアな映像だったはず」と反省しきり。しかしおもしろい動画が撮影できたことで、「やはり動画で正解だったのかなあ」と結論づけていました。このときは、それなりに自らを落ち着かせたものの、「今後も同様の悩みに遭遇する気がする」と最近は話しています。

 オリンピックごとにデジタルカメラは技術革新が進みます。先日、某メーカーから発表された来春発売の最新鋭機は、画素数も3割増強された高スペックなカメラに生まれ変わります。数年のちには「すべての撮影対象を動画で撮ったらいいじゃないか」との少し乱暴な意見も出るでしょう。質よりも写真の有無が問われる報道の現場では、動画からの切り出し映像を活用することも想定内になるでしょう。

 とはいえ、写真は現在も未来も一瞬を切り取る世界です。写真のもつ情報量の多さ、そして人々の感動を呼び起こす印象度や訴求力からみても、写真の優位性は揺るがないと確信します。東日本大震災から8カ月近くたち、今年はつくづくその存在の大きさを感じています。

 
朝日新聞社報道局写真部長
渡辺幹夫





10月のコラム


(日経・山田)

【写真】巡回された写真展=米原公民館で 【写真】巡回された写真展=米原公民館で



《ワスレテハイケナイコト》
 東日本大震災の取材がはじまって1週間余りたった3月20日ごろ、写真部員の一人が「写真展やりませんか」と言ってきた。連日被災地から送られてくるおびただしい数の写真。紙面に掲載する写真を選びながら、この選ぶという作業にどれほどの意味があるのか、新聞に載った写真と載らなかった写真に差はあるのか、そもそも新聞だけでこの災害を伝え切れるのか。そんな疑問がどんどん膨らんでいたときだった。

 日々の紙面を作るだけでも十分に忙しい毎日だが、部員はみな何かに憑かれたように作業をし、2週間後の4月6日には東京・大手町本社での開催にこぎつけた。展示したのは3月12日から27日までに撮った67枚の写真と8つの取材メモ。タイトルは、この災害を決して風化させてはいけないという思いで、東日本大震災報道写真ギャラリー「記憶 忘れてはいけないこと」とつけた。

 勢いだけで始めた写真展。反響があるかどうかは正直不安だった。しかし、予想以上の数の来場者があり、多くの励ましのメッセージもいただいた。その中で、滋賀県米原市の米原公民館の方から、「感動しました。ぜひ、うちの公民館でこの写真展を開いてもらえませんか」との依頼が寄せられた。そんな引き合いがあるとは思っていなかったのでびっくりしたが、喜んで写真パネルを貸し出し、大阪写真部からは設営の手伝いも派遣し、6月6日から20日にわたって無事開催された。写真はそのときに見に来てくれた親子である。

 「キオク。ワスレテハイケナイコト…」。父親が2人の子供に聞こえるように、写真展のメッセージボードを読み始めた。一字一句漏らさず語る朗読はやがて写真のキャプションに移る。途中、写真の解説も交えながらの約30分間、2人の子供の目は写真を見つめ、耳は父親の声をたどっていた。

 親から子へ、そして人から人へ。私たちの「写真ギャラリー」という小さなメッセージが、確かな言葉となってつながっていく。震災後、人とのつながりや絆を意識することが多い。そして「伝える」ことの大切さも。これらも「ワスレテハイケナイコト」なのだろう。

 
日本経済新聞社写真デザインセンター長兼写真部長
山田 康昭





9月のコラム


(産経・藤原)

毎日佐藤 【写真】日本代表合宿の本田選手(左)と長友選手



《あきらめない心で》
 最近、日本人サッカー選手の海外進出が目立ちます。イタリア・セリエAのビッグクラブ・インテル・ミラノに移籍した長友佑都を筆頭に20人前後の選手が欧州の主要リーグに所属しています。ドイツ・ドルトムントの香川真司の昨年の大活躍は記憶に新しいですし、多くの選手がレギュラーを獲得、もしくは争っています。中でもCSKAモスクワの本田圭佑は派手な言動とファッションを含めスター選手の雰囲気がありますね。ビッグクラブ移籍の噂も絶えません。欧州の移籍マーケットは8月で閉じますので、このコラムが掲載される頃には新しいチームへ移籍しているかもしれません。
 
 私が新聞社に入社した26年前、サッカーは決してメジャーなスポーツではありませんでした。海外で活躍していた選手も奥寺康彦さんしか記憶にありません。人気の高かったプロ野球の陰に隠れていたように思います。流れを変えたのは中田英寿の出現でした。彼は欧州のトップリーグ、イタリア・セリエAペルージャへ移籍し活躍しました。その後ASローマでもプレーし、“イタリアで初めて成功した日本人”になりました。しかしその後、欧州主要リーグで成功したといえる日本人は思い浮かびますが、“中田以上の選手”がいたでしょうか。
 
 ところが今年、“私的に中田以上の選手”が出現しました。それは長友佑都です。彼はセリエAのビッグクラブ・インテル・ミラノへ移籍し、驚くことにレギュラーの座を獲得しました。(今後はわかりませんが)中田英寿はカップ戦要員でしたから、私の勝手な理論で“中田以上”となるわけです。
 
 1998年、初出場のフランスW杯で私たちは世界との実力差を思い知らされました。2002年日韓大会での「思い上がり」もつかの間、2006年ドイツ大会では再び世界との差を実感しました。しかし、2010年南アフリカ大会では下馬評を覆し、決勝ラウンドまで駒を進めました。今年のアジア杯での優勝も見逃せません。8月のガチンコ対決では宿敵・韓国を3-0と圧倒しました。
 
 躍進の理由は多々あると思いますが、個人の技術向上が大きい要因だと思います。タフで技術の高い欧州の主要リーグでプレーする選手が増えたことが日本代表のレベルの底上げにつながったのだと思います。今夏、19才の宇佐美貴史がドイツのビッグクラブ・バイエルン・ミュンヘンへ移籍しました。イングランドの名門アーセナルはオランダへレンタル移籍させていた宮市亮(18才)をプレミアリーグでプレーさせるため、特例で就労許可証を取得させました。日本人選手の評価は確実に高まっているのです。
 
 7月、女子サッカーの“なでしこジャパン”がドイツで行なわれたW杯で優勝、日本に勇気を与えました。東洋人は不利といわれるボディーコンタクトの球技を「あきらめない心」で制したのです。南アW杯前「目標はベスト4」と発言した岡田武史前監督は世界から鼻で笑われました。しかし今後“中田以上の選手”が数多く出てくることで「誰にも笑われない日」は近い気がします。決してあきらめない心は日本人の大きな武器だと思います。
 
 産経新聞社写真報道局
 写真部長・藤原 重信





8月のコラム


(スポニチ・佐藤)

スポニチ佐藤 スポニチ佐藤 スポニチ佐藤
スポニチ佐藤 スポニチ佐藤 スポニチ佐藤



 この度の東日本大震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々に謹んでお見舞い申し上げます。

 私は3月11日の地震発生時には、社内でデスク業務中。ああ地震だなと思っているうちに、揺れは大きくなり、時間も長く、ついに関東にも大きな地震がきたのかと一瞬思うほどであった。やがて震源地は東北地方であることが判明し、津波警報が発令され、ただ事ではないと私も含めて社内での認識がかわった。

 ただ、人間いざとなると地震発生時は何もできない自分がいて、さらに時間がたったからといって何かできるかというと、悲しいかなさらに何をすればよいのか分からない自分がいた。

 その日の新聞発行業務は、なんとか遂行することができたが、翌日からはスポーツ新聞としての震災被害の報道の難しさを感じる日々が、長く続くこととなる。その後、我々スポーツ新聞はスポーツ界、芸能界の復興支援活動をはじめ様々な角度から震災復興関連のニュースや話題を追いかけてきた。

 今回のコラムで紹介するのは、岩手県陸前高田市にあった県立高田高校野球部への密着取材である。(現在は県立大船渡東高校の校舎を借用中)一年間という時間をかけての取材予定で、まだ始めてから4か月目での途中ではあるが、高田高校野球部を通しての人間模様や、地元の復興の様子などを少しでもみなさんに知ってもらえればと思い、取材に派遣した高橋雄二記者の写真とともに紙面を何点か掲載させていただきます。


スポーツニッポン新聞社
編集局写真部長 佐藤 雅裕





7月のコラム


(毎日・佐藤)

毎日佐藤



 まず、大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、被災された皆さまに謹んでお見舞い申し上げます。
 
 3月11日午後3時56分、巨大地震による津波が名取市の沿岸部に押し寄せる瞬間を手塚耕一郎がヘリから撮影した。2カ月が経った5月初旬、手塚は写真を手に現地を訪ねた。そこで写真に写っている集会所の屋根に上り助かった男性と出会う。男性は地元の人たちの避難誘導中に津波に襲われ、仲間4人と屋根の上で一夜を明かした。翌朝、周囲の水が引き男性らは股下まで泥に浸かりながら仙台空港に避難した。あの日は夕方から雪になった。屋根の上で震える男性は妻に「寒くて大変だ。助けてくれ」と携帯でメールを送る。避難して無事だった妻は警察に救助を要請するが、混乱していて取り合ってもらえなかった。そのうち、携帯のバッテリーも切れ連絡が途絶えた。 
 
 翌12日の朝、妻は避難先で地元紙に載った手塚が撮影した津波の写真(写真左)をルーペで食い入るように見ていた。夫の姿を新聞で確認しようとしたのだ。写真を拡大(写真右)すると、夫が避難した集会所はかろうじて分かった。しかし○印内の人影までは、新聞の印刷では分からなかった。その後、人づてに夫が無事でいると聞いたのは14日の午後。夫婦が再開できたのは16日になってからだった。手塚が訪ねた時、この夫妻は知り合いの家族と一緒に避難所の近くの耕作放棄地を耕して野菜作りを始めていた。
 
 沿岸に押し寄せる大津波を上空から見た手塚は、これは数千人の命が奪われると直感したという。自分が撮影したあの場所にいた人たちが、どうなったのかずっと気がかりだった。どんな反応があるのか、不安を抱えながら被災地に向かった。現地では新聞や写真集に掲載された津波の空撮写真が話題になっていて、プリントを見ながらいろいろな話を聞くことができた。夫婦の話もその一つ。
 
 被災地の避難所では新聞が重要な情報源として機能したと聞く。停電でテレビやパソコンは使えず、ラジオにも限りがあった。震災当初、写真部員は販売店から宿舎に届けられた朝刊を避難所に届けた。被災者にたいへん喜ばれたという。
 緊急時に頼られるメディアとして、一過性の報道に終わらせず「その後」をしっかりと追い続けることが新聞の使命だ。タフな取材になるが10、20、30年と地道に被災地報道を続けたい。


毎日新聞東京本社写真部長
佐藤泰則





6月のコラム


(読売・池田)

6月コラム



《昆 愛海ちゃん》
 東日本大震災で亡くなられた方が1万5千人を超えた(5月14日現在、警察庁調べ)。行方不明者も9千人を上回る。避難されている被災者は11万5千人以上だ。観測史上最大マグニチュード9.0の大地震は人々を恐怖へ落とし入れ、大津波はすべてを奪い去っていった。この震災被害を言い表す適切な言葉を私は思いつかない。

 読売新聞が3月31日付け朝刊1面で伝えた昆愛海(こん まなみ)ちゃん(5)。「ままへ。いきてるといいね。おげんきですか」覚えたばかりの平仮名で行方不明の母親あての手紙を書き、その上に頬をのせて眠っている写真は読者の大きな反響を呼んだ。震災で両親や家族を亡くした子どもたちを正面から取り上げた写真だった。写真部には援助の申し出はもちろんのこと、養女に迎えたいという電話も寄せられた。

 愛海ちゃんのこの写真を見るたびに胸を突き上げるむなしさややるせなさ。同じ思いであっただろう読者に「愛海ちゃんの今」を伝えなければと5月に入って写真グラフを掲載した。ノートには、母親への手紙の続きが書かれていた。「おりがみとあやとりと ほんよんでくれてありがと」。やさしかった父親には「ぱぱへ。あわびとか うにとか たことか こんぶとか いろんなのおとてね」と一生懸命につづっていた。

 ほほ笑む母親の写真を手に「ママ、かわいいね」とささやく愛海ちゃん。家事を手伝いながら両親と妹の帰りをまつ愛海ちゃん。その小さな背中にどんな言葉をかけたらいいのだろうか。


読売新聞東京本社写真部長
池田 正一





5月のコラム


(日本農業 結城)

【写真】神田市場=1984年撮影
【写真】神田市場=1984年撮影


結城淳
結城淳



 《ごあいさつ》         
 この度の東日本大震災でお亡くなりになられた方へのお悔やみと、被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。自然の脅威とはいえ、余りにもひどい仕打ちに言葉もありません。この不条理は理解しようとも、理解できません。この世は明日何が起こるか、本当に分からないことを明晰にしてくれました。

 挨拶が遅れましたが、日本農業新聞の結城淳と申します。2月に広告部から異動してきました。若輩者ですので、皆さまにはご指導・ご鞭撻を何卒よろしくお願いします。

 簡単な自己紹介をさせていただきます。1982年に日本農業新聞に入りまして、駆け出しは「やっちゃば(市場)記者」でした。昔を知らない人は想像できないと思いますが、当時国鉄秋葉原駅北口(現在のITビル、消防署)には東京の台所、神田市場(太田市場に移転)がありました。早朝から、それは賑やかなものでした。新人だけに、びっくりしたことは、10時30分にちっぽけでそれは汚い記者クラブに入ると、まず先輩の一声は「結城やるぞ」。仕事と思いますよね。でも違うのです。「こいこい(花札)」だったのです。青果卸のギェンブル大好き叔母ちゃんも交え、12時過ぎまで「こいこい」に精進して、ようやく本番、翌日の紙面を考えます。

 この時点で、まだまっ白です。「キャベツが上げてるな。よしそれトップ」。「ミカンの低迷はひどいな。それサブ」。「片はどうする」。なんていう紙面つくりでした。今では考えられないほど、おおらかな時代でした。夜は早々18時(まだ勤務時間内です)くらいから、社内の片隅で酒の宴が始まります、その後、これも例外なく居酒屋へなだれ込みます。毎日毎日、延々午前様まで続きます。

 夏場は銭湯(風呂付のアパートに入れたのは数年後松山に転勤した時が初めてでした。今は学生も風呂付きが常識だそうで、信じられませんが)にいけずに鬼デスクに「今日くらいは12時前に帰らせて下さいよ」と抵抗したものです。デスク曰く「風呂入らなくても、死にやしねよ」。

 「やっちゃば」を4年やり、次は花の営農技術担当(何と農業専門紙、花の技術記者は初めてでした)。これは1年でちょんとなり、転勤で四国・松山で4年、戻って、くらし面、校閲、社会面、農政担当など上に嫌われていたのか、次から次へ部署が変わりました。異動にもめけず、あいもかわらず、上にモノ申していたせいか、編集から営業(広告)に飛ばされ、新会社立ち上げ準備室、6年前に名古屋で販売担当等など、経理以外あちらこちらを回り、ようやく写真部に辿り着いた次第です。

 肩書は名ばかりですが、写真部長。が、悲しいかな見せるビジュアルな絵をとれませんので、実務は少数精鋭の部員にまかせ、もっぱら雑務が主な仕事で、寂寞感を感じる日々です。

 恥ずかしい話ですが、東日本大震災の現場にまだ行かせてもらえません。そろそろ勝手にネタを拾い写真とペンで己の存在をまず身内に知らしめたいと切に思っております。被災地には連休明けには入りたいと思っております。写真は紙面には反映されない可能性大ですが…。

 一番好きな写真家は日本人初のマグナム・フォトの寄稿写真家となった濱谷浩です。昔NHKでの特集をみて、圧倒されました。雪国、裏日本、怒りと悲しみの記録など、特に人物は圧巻です。今でもこんな写真を撮れたらと最高だと思います。叶わぬ夢ですが。ただ、くらし面時代に元気な高齢者の企画(後に「輝いてときめいて」という本になりました)をやりましたが、記事より元気で生き生き見せる写真に重点を置いて取材したのが5本の指に入る思い出です。

 趣味は路上観察、人物観察です。暇はたっぷりありますが、お金がありませんので。埼玉県鴻巣市の田舎が自宅というのも幸いしてか、休日はカメラを片手にぶらぶら、ぷらぷらです。移り行く自然の変化は飽きることがありません。長くなってすいません。最後に理想の人物像は藤沢周平が描く哀歓ただよい、淡い恋心ある庶民か下級武士的存在です。映画にもなった「隠し剣 鬼の爪」で永瀬正敏が演じる片桐宗蔵には、憧れてしまいます。

 今後とも何かと大変お世話になりますが、よろしくお願い申し上げます。



日本農業新聞 写真部長 結城淳





4月のコラム


(東スポ 米田)

【写真】「持ち主は無事なのか・・・」
【写真】「持ち主は無事なのか・・・」南三陸町の被災地では、子供用のスプーンと消防車のおもちゃが形をとどめていた=前田利宏撮影、3月15日付け紙面に掲載



 《連日の新聞写真に感動》         
 本文の前に、謹んで地震災害のお見舞いを申し上げます。
 3月11日(金)14時46分、昼食後とあってまったりとしていた編集局が耳鳴りのような「ぶーん」という低周波の音の直後グラリと揺れた。
 
 「地震?」「地震だね」なんて言い合っていたのもつかの間、今まで経験した事がない揺れがやってきた。「何?」「おいおい!」「デカい!デカい!」。悲鳴こそなかったが声にならない声。窓から外を見ると高層マンションの避雷針が今にも折れんばかりに大きく左右に揺れている。三脚や脚立、レンズケースが倒れ落ち液晶テレビも倒れた。
 
 頭上からは天井の梁の部品が「バキッ」と音を立てて落ちてきた。最悪だったのは銀塩時代から使用している大きなプリンターの補給用の純水がタンクごと倒れたことだ。フロアが水びたしになり、階下に水漏れになってしまう為、揺れの中大急ぎで水をふき取らねばならなかった。
 
 テレビからはニュース速報の「ポーン・ポーン」と地震発生のテロップが一斉に流れる。「М8.8!こりゃあヤバイぞ・・・」しばし同僚とぼう然としている間にも余震が相次いだ。足元から揺さぶられて机の下に隠れる事も、何かを押さえて保護する事も一切できない。震源地に近い東北地方の惨状はこの時は想像もしなかった。ましてや原発に被害が及び、国をも滅ぼしかねない事態になるとは全くの想定外だった。
 
 とにかく東京も自宅も大変なことになったのは間違いないと感じた。部員や家族の安否、ペットはどうなっているかなどさまざまな憶測がフルスピードで駆け巡る。社屋の窓からは台場方向の空に黒煙がもくもくと上がっているのが見え災害を身近に感じた。地震発生から30分ほどすると「弊社のビルに亀裂が入った恐れあり」と全員退避の放送がかかる。
 
 今思えば、ちょうど東北地方を津波が町ごと飲み込んでいる頃だった。外に出ると小学生が防災ずきんをかぶって校庭に出ている。不気味な余震は何度も続く。しばらくして退避命令が解け、社屋に戻ってみると都内で取材中だった部員や通信社から数枚の都内の被害の写真が入り始めていた。
 
 911同時多発テロや福知山線脱線事故など目を疑うような重大事件事故の報道に携わってきたが、自分自身が大きな災害を体験したのは初めてだった。もちろん震源地付近の被害とは比べようも無いくらいのレベルだったがショック状態は続き、あえて平静を装っている自分がわかった。揺れて位置が変わったテレビからは宮城や岩手の上空ヘリからの映像が入ってきてさらにショックを受けた。現場に出ている部員とはなかなか連絡が取れない。取材の移動中、列車に閉じ込められたままの部員もいた。
 
 先の見えない政治や経済でそれでなくてもどんよりしていた「日本」だったが、更なる追い討ちをかけるがごときこの天災。ふと外を見ると台場付近の火災現場から漂ってきた黒い煙が合わさり首都東京の空は黒い不気味な空に変わっていた。小松左京原作の映画「日本沈没」のシーンや五木ひろしが歌った映画主題歌「明日の愛」のメロディーが浮かんでくる。ついさっきまで「もうすぐ開幕だね〜」「まだ寒い」「花粉症だよ」なんてのんきに過ごしていた日々だったが、一瞬で首都圏の交通をマヒさせ、食糧や電池、燃料不足、停電に悩まされる不自由な生活に180度変わった。
 
 テレビからはバラエティー番組や民間企業のCMが消え巨大地震緊急番組が連日流れ続けた。最初はメディアのヘリ映像だけでなく一般人が撮影したグラウンドレベルの津波動画にただただショックを受けぼう然とした。翌日、福島原発が爆発というショッキングな出来事がありニュースの中心が「放射能」の恐怖に変わっていった。福島原発が水蒸気爆発した際の衝撃的な映像や現場で必死に行動する自衛隊、警察、消防の姿と正反対の他人事のような事務方の会見、地震被災者の家族にあてた涙ながらの声、津波や固定カメラが記録していた地震のすさまじい揺れ・・・。動画でなければ伝わらない優位さを確かに感じた。
 
 ただ、私はこのコラムの場で動画だ、いや静止画だと競うつもりはない。静止画には静止画の良さも存分にあることは言うまでもない。報道カメラマンはどんな現場でもファインダーを覗くと、何を盛り込むのか、何を伝えたいのか考える。写真から汲み取ってほしいものをぎゅっと凝縮してキャプションを付け新聞紙面という発表の場で表現する。千年に一度といわれる未曾有の地震・津波の災害や予想もしなかった原子力発電所の事故、各社の取材写真に胸を打つものが非常に多かった。
 
 私は通常、新聞を読む時まず写真をざっと見、目で読んでから記事に目を通す癖がある。
 しかし最近は写真に釘付けになり、なかなかページをめくれない。手を止めキャプションを読み目頭が熱くなっている。さらに記事を読むと、日本語の芸術ともいえるすばらしい文章がある。もう一度写真を見つめ直す。何度も見直し、読み返し、我々のような写真を見慣れた人間にも「感動」を与えてくれる。1枚の静止画から伝わるものがこれほど多いものかと新聞報道のすばらしさ、誇りのようなものを再確認した。
 
 思い返せば平和な日々、やれ「タイミングが・・」とか「ピントが・・」とかの次元でなんとなく日々を送っていたことを反省させられた。綺麗な景色や華やかな美女の写真もいい。スポーツの決定的な写真もいいだろう。
 
 しかしながら、報道写真の真髄は単なる記録ではなく、日本人の心の奥底にあって現代社会で忘れかけているやさしさや思いやりのような「グッ」とくるものを1枚で訴えかけるところにあるのではなかろうか。撮影者が表現したい気持ちを念じなければ写せない奥深い写真。心に染みる絵本のように読んだ後でじわ〜っとくる感じ。語弊はあるけど「いい写真だ・・」とつぶやける写真。何度も読み返したくなるような「あ〜わかるよ」という含蓄のある写真だ。連日各紙の写真は心に染み入る。被災からしばらく経ち、このコラムを執筆させていただいている今も時折強い余震が続く。
 
 福島原発周辺では最悪の事態を免れようと命がけで全力の作業が続いている。9日ぶりに奇跡的に救出という明るいニュースもあった。日本中、いや世界中が固唾をのんで進展を見守っている。取材活動も困難を極めているだろう。悪条件の中、頑張っているプロカメラマンの1枚でまた明日も「グッ」とくるだろう。新聞報道写真。静止画の重みを改めて痛感した。       

東京スポーツ新聞社 写真情報システム部長    米田和生





3月のコラム


(報知・本戸)




 《思い出の紙面》         
 2月中旬の月曜日、このコラムで何を書こうかと考えながら出社すると、真っ黒に日焼けしたプロ野球キャンプ取材帰りの部員が何人かいました。その日焼けした顔を見ていると、自分もカメラマンとして現場に出ていた頃のことを思いだします。
 
 思い返せば、毎年2月には、東京にいることなどありませんでした。だいたい九州、沖縄…。どこかの球団のキャンプに出張していたものです。なかでも宮崎県、つまり読売巨人軍のキャンプ地である青島に足を運んだ機会がダントツに多かったのは間違いないでしょう。
 
 私は子供の頃からONの活躍をテレビで見て育ち、現場取材では長嶋監督を多く取材してきました。このコラムでも何人かのスポーツ紙の部長が、ミスターについて書いていらっしゃいましたが、それを読みながら自分も同じ現場にいたなぁと当時を懐かしく思い出しました。
 
 その長嶋監督が、本拠地・東京ドームでジャイアンツのユニホームを脱ぐ勇退の日。私にとって忘れることのできない一日でした。すでに現場には出ない内勤のデスクという立場になっていましたが、これも何かの縁でしょうか、その2001年9月30日、写真部の当番デスクは私でした。
 
 その日の編集会議で、当時としては斬新なアイデアが出ました。スポーツ紙の顔となるフロントページの1面を、記事原稿を極力少なくし写真を前面に押し出して作れないかという提案でした。10年前としては、かなり画期的な試みだったと思います。私にとっても思い入れのある長嶋監督の記念になる日の新聞です。いつまでも読者の心に残るような記念の紙面にしたい…との思いが強くありました。
 
 当日は、現場となる東京ドームに10人を超えるカメラマンを配置しました。
 大量のフイルムがドームから会社にバイク便で届きます。1コマ、1コマ、3000枚以上のコマをルーペで見ながら、どんな構図の写真を使ったらよいのか悩みました。頭の中には、長嶋さんが現役引退試合で見せた最後の挨拶、スポットライトが当たったなかでの正面を向いた姿が思い浮かんでいました。
 しかし、同じパターンではつまらない。どうしたものかと考えていたところ、ふと、監督の後ろ姿が頭にひらめきました。
 
 「そうだ!背中の3番で行こう」と思いたちました。締め切り時間を気にしながら、必死でネガを見まくりました。スポットライトを浴びた背中の3番と長く伸びた影。一塁側に配置したカメラマンが撮影した1コマが目に飛び込んできた瞬間「これでいけるぞ」と思ったことを記憶しています。
 
 後日談ですが、勇退の挨拶で弊社を訪れた長嶋監督が、玄関に飾られたその一面の写真パネルを見て「いい写真ですね」と言われたと聞き、撮影したカメラマンとともに喜びました。
 
 今年のプロ野球は日本ハム・斎藤佑、巨人・澤村などの注目ルーキーに加え、現場復帰した楽天・星野監督など話題が豊富です。近年は昔に比べテレビ中継も減っていて、家でプロ野球を見るような機会も減っているのが一野球ファンとしては少し残念です。テレビの代わりになるかどうかは分かりませんが、インパクトのある写真や記事を提供し、読者の心に響く紙面を届けられれば…と思っています。
 
 報知新聞社写真部長 本戸辰男





2月のコラム


(時事・大高)

【写真】Nさんが愛した佃。高層ビルが並ぶウオーターフロントのそこここに民家も残っている=2007年、筆者撮影
【写真】Nさんが愛した佃。高層ビルが並ぶウオーターフロントのそこここに民家も残っている=2007年、筆者撮影



《Nさんのこと》
 2009年5月、時事通信写真部の元カメラマン、Nさんが亡くなった。享年78。会社員生活の前半を経理部門など事務系の仕事で過ごした。その頃趣味で始めたカメラにのめり込み、アマチュア写真家として台頭。主要カメラ雑誌の年度賞を獲得するなど活躍し、その腕を見込まれて写真部に転属になった。

 Nさんの生涯のテーマは東京の下町。40年以上に渡り、浅草や佃島などにこだわって取材を続け、晩年には写真集も刊行した。N家を弔問した際、「写真のことはわからないから」と遺されたぼう大なネガの取り扱いに悩んでおられるご遺族に、「私に整理させてほしい」と申し出た。Nさんの写真の資料価値が極めて高いことは疑う余地がなかった。この話を「江戸東京博物館」(東京都墨田区)に持ち込んだところ、幸い興味を示してくれ、「どの時代のどんな写真があるのか調べてほしい」と依頼された。

 それから私は休日のたびにN家に通い始めた。Nさんの写真整理は行き届いており、すべてのネガに時系列の通し番号をふった上、それに対応するベタ焼き(コンタクトプリント)を貼り付けたアルバムを残していた。私の仕事はネガとベタを照合して、資料性の高いコマを特定し、そのリストを作ることだった。対象を「昭和期に東京都内で撮影された写真」に限定したが、それでも最終的にリストアップされたネガは2190本、コマ数にして7万705枚に達した。

 「浅草三社祭」「佃の子どもたち」「新宿フーテン族」「下町の紙芝居」―ネガには、私自身も少年期から青年期を生きた「昭和」の気配が息づいていた。感情移入して、作業の手がストップすることもしばしば。デジタル化された現在と違い、フィルム時代は36枚という制約の中で起承転結を表現する。Nさんが現場で何を感じながらシャッターを押しているか、ベタを通して追体験するような感覚にとらわれ、取材の足跡をたどる旅はスリリングだった。

 ベタを見ながら気付いたことがある。Nさんはアマチュア時代の初期、動物園などでの写真コンテストやモデル撮影会に頻繁に通っている。普通、腕を上げ、作品が認められるようになれば、こうした行事は“卒業”していくものだが、Nさんはトップアマになって以降もずっと参加している。私の推測だが、Nさんはそこで知り合った写真関係の友人知己との交流を大切にし続けたのだろう。「写真家先生」になって仲間の輪から離れることを潔しとしなかったのではないか。いい意味でのアマチュアリズムを手放さなかったのが、半生に渡って写真を撮り続ける原動力になったと思う。

 写真は続けた者が勝ち。何かを好きになって始めることは簡単だが、人間は必ず飽きる動物だ。控えめなNさんには「表現者として同時代の現実を切り取ってやろう」などという大げさな野心はなかったはず。だが、その作品群は当時の時代性を何重にもまとって底光りしている。特別な気負いや覚悟がなくても何十年と取材活動を続けられたのは、Nさんがごく自然に写真に寄り添っていたからだ。好きでい続けられるのが最大の才能だ。

 Nさんのネガは今、同博物館に移って学芸員の手で守られている。Nさんの人生は幕を閉じたが、その分身ともいえる写真はこれから新しい旅に出て、いろんな人たちとの出会いが待っているだろう。

時事通信社写真部長  大高正人





1月コラム・年頭挨拶


(事務局・花井)


あけましておめでとうございます。
今年も皆さま方のご多幸をお祈り申し上げます。

 日本橋三越本店で開かれた「2010年報道写真展」(10年12月17日〜26日)は成功のうちに閉幕しました。日本人女性2人目の宇宙飛行士、山崎直子さんと、プロ野球日本一の原動力となった千葉ロッテマリーンズの井口資仁選手のテープカットでスタート。新聞やテレビが取り上げてくれたこともあり、連日満員の盛況ぶりでした。1月8日から3月6日まで、横浜市の日本新聞博物館に会場を移して展示されます。

 昨年、報道展について触れた朝日新聞の「天声人語」に、「急ぎ足で会場を回って、政治の沈滞をスポーツと宇宙が埋め合わせた年だと思った」とありましたが、正鵠を得た指摘です。社会全体を閉塞感が覆う中、バンクーバー冬季五輪やサッカーW杯南アフリカ大会での日本人選手の活躍、オーストラリアの星空で燃え尽きた探査機「はやぶさ」の光芒は、一縷の希望を与えてくれたと言ってもいいでしょう。

 09年は政権交代で「歴史が動いた年」と言われたのが嘘のように、10年から11年の年明けにかけて民主党の政権運営は「混迷」の様相を深め、おとそ気分どころではない「一寸先は闇」の状態です。年の瀬に小沢一郎元代表が政倫審出席を表明したものの、これら諸問題がこじれれば、民主党の分裂含みで政局は一気に緊迫化するでしょう。4月には統一地方選があります。昨夏の参院選大敗以来の民主党の退潮に歯止めが掛かるのかどうかも注目されます。
 
 明るい話題としては、「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹投手のプロ入りが挙げられます。天性のスターである彼が活躍すればフィーバーは間違いなしでしょう。また、東京都墨田区に建設中の「東京スカイツリー」が今冬に竣工予定。開業は12年春ですが、「カウントダウン」騒ぎが今から目に浮かびます。

 今年も、東京写真記者協会の写真記者ひとりひとりが「国民の知る権利」に応えるべく努力していきましょう。その記録は「時代の証言」であり、権力をチェックするとともに、弱い立場の人たちの代弁者の役割も担っています。同時に、年々レベルアップする企画ものに見られるように、ひとりの表現者として、豊かな想像力を1枚の写真の中に存分に羽ばたかせてくれることも期待しています。

2011年1月   東京写真記者協会
  事務局長・花井尊





12月のコラム


(共同・上妻)

【写真】横綱白鵬が初場所14日目に琴欧洲を下してから、九州場所初日に栃ノ心に勝って63連勝を達成するまでの全取組(左上から横に右下まで)
【写真】横綱白鵬が初場所14日目に琴欧洲を下してから、九州場所初日に栃ノ心に勝って63連勝を達成するまでの全取組(左上から横に右下まで)



《白鵬の連勝》
 大相撲の東横綱白鵬が九州場所2日目に平幕の稀勢の里に寄り切られ、初場所から続いた連勝は63でストップ、戦前に双葉山が記録した史上1位の69連勝には届かなかった。
 しかしその後連勝して優勝決定戦では平幕・豊ノ島を優勝決定戦で下して5連覇で17回目の優勝を果たした。平成18年(!)以来の日本人力士の優勝はならなかった。
 
 報道カメラマンとアマチュアとの違いのひとつは、スポーツ写真が撮れるかがポイントになる。大きな望遠レンズを自在に扱い被写体の動きの一瞬を切り取る技術は、競技、選手の知識、集中力や運動神経、運など多くの要素があるが、撮影ポジションもそのひとつだ。
 プロ野球は一塁、三塁、センターなどのカメラマン席、サッカーもゴールライン後方など決められた取材席からの撮影になる。ヨット、ボートは水上から撮影できない限り相当離される。被写体から近いほど良い写真が撮影できるチャンスが多い。では間近から撮影できるスポーツは何か?
 
 大相撲取材は制限が多いが、近くから撮影ができる。「砂かぶり」といわれる土俵の東西審判員の並びの最前列で撮影できる。12人が土俵を囲み、日替わりで取材位置がずれる。ボクシングなどの格闘技系があるが、中腰の姿勢での撮影になる。2メートルの距離でじっくり座って取材できるのは大相撲ぐらいだ。決まれば迫力のある写真が紙面に載る。しかし危険が伴う。「うっちゃり」、「寄り倒し」など土俵際でもつれる相撲は、力士が「降ってくる」のを覚悟しなければならない。カメラやストロボの破損は当たり前で、けがをする時もある。
 
 蔵前国技館で取材していた頃、腰高で投げられやすい高見山の取り組み時には緊張した。手前に力士が来たときには逃げ方を考えながら、シャッターをどこまで切るかとっさの判断をせまられた。デスクがフィルムを見ればわかるので逃げるわけにもいかなかった。白鵬の63連勝中の決まり手を見ると、「寄りきり」19回、「上手投げ」17回、「押し出し」、「すくい投げ」と続き、砂かぶりのカメラマンにとっては比較的「安全」な横綱だ。
 
 7月の名古屋場所。相撲協会は野球賭博問題の影響を受け、優勝力士への天皇賜杯を辞退した。白鵬は賜杯のない千秋楽の表彰式で涙を流した。「何回も優勝している自分でも変な気持ちになるのだから、ほかの力士が優勝したら大変な思いだったと思う。そういう意味で自分が優勝してよかった」とのコメントは素晴らしかった。
 
 九州場所で13連勝。連勝が続くと今度は、来年の名古屋場所で大記録達成になる。

2010年12月
共同通信社ビジュアル報道センター写真部長 上妻聖二





11月のコラム


(NHK・坂本)

転覆した「第一幸福丸」から4日ぶりに救助される乗組員=NHKヘリから(動画から静止画に変換)
転覆した「第一幸福丸」から4日ぶりに救助される乗組員=NHKヘリから(動画から静止画に変換)


《伝えること》
 1年前の10月28日、八丈島近海で撮影したこの映像は、新聞の複数紙が一面で掲載してくれたことから、昨年、初めて東京写協の報道展に出品させていただいた。メディアの違いについて、選考過程でさまざまな議論はあったと思うが、いろんな意味で記念すべき映像となった。こんなチャンスも、もうなかなかないだろう。
 
 行方不明となった漁船の乗組員が転覆した漁船から4日ぶりに奇跡的に救出される瞬間をとらえたものだが、とにかく、尊い命が救われた瞬間であったことが見る人を感動させたと思っている。おかげさまで、このテレビ映像は、今年度の新聞協会賞を受賞することができた。テレビの強みは映像と音。上空のヘリコプターからの空撮のため、助かった本人の肉声を聞くことはできないが、水中から日常の空間に戻ってきた瞬間、乗組員が、最初になんと発したのか、その言葉が想像される。
 
 日ごろから事件事故をはじめ、緊急報道では、早さ、正確さ、決定的瞬間を競っている各社だが、読者や視聴者の期待に応えるには、より多様な発信が必要だと感じているのは共通した意識だろう。最近、明るいニュースがめっきり少なくなった中で、久しぶりに心和らぐ話題が映像とともに地方から届いた。
 
 地方局のカメラマンが提案したリポートの内容は「飛行犬」。連日の盛りだくさんのニュースで、放送が延び延びになっていたが、先日やっと全国放送になった。
 「飛行犬?」。かつて「潜水犬」といった話題もあり、はじめは、ゴーグルでもして、パラグライダーでもするのかと思っていたら、ほんとうに飛んでいる!?
 (※残念ながら、著作権の関係で掲載はできないが、興味のある人は、一度「飛行犬」で、検索を・・・)
 
 記念写真にとどまらないインパクトのある犬の写真が撮れないか、兵庫県の地元の写真館から独立したカメラマンが、そう考えていた時にたまたま撮れたのが、空を飛んでいるかのような躍動感あるこの写真。記念写真に満足しない愛犬家たちが、全国からそのインパクトのある写真に魅せられ、集まってくる。
 
 取材したカメラマンによると、年々、口コミやネットで噂は広まり、1日に最高で30匹、年間にのべ3000匹もの犬たちが飛行犬になろうと飼い主に連れられてくるそうだ。中には、飛行犬になるには少し適齢期を過ぎた犬もいる。なんとか元気なうちに、その姿を写真に納めたいと思う主は、日ごろの運動不足もなんのその、息を切らしながら、愛犬と共に全力疾走する。その願いをプロがその技術で写し込む。時には、望遠レンズで写す秒間10コマの連写でも、成功するのはたった1枚。飼い主の切なる思いを受け、その一瞬にプロの技で応えようとする話と愛きょうのある写真に、思わずほほえんでしまった。
 
 わたくしごとだが、わが家の飛行犬候補生は、御年15歳。いまだ、独身。このニュースを見て、プロの技で・・・という気持ちもあるが、最近は持久力も衰え、果たして、飛べるのか、いや、宙に浮くのか、自信はない。
 
 1枚の写真をめぐる人々の思い、カメラマン自身が撮影するだけでなく、こうした思いを映像で伝えるのも、大切な役目だと思う。
 
 スチルとムービー、いま、その距離は確実に縮まっている。スチルカメラにハイビジョン動画撮影機能が加わり、ハイビジョン映像からは、高画質の静止画が加工できるようになった。これまでどおり、手法の違いはあれど、映像・写真で人々に感動を伝えるという思いがカメラマンの原動力となっていることに変わりはないと思っているが、このボーダレスな動きは、これから、カメラマンたちにどのように影響を与えていくのだろうか。
 
 そうしたこれからの変容の可能性とともに、ただ歴史を記録することに満足するのではなく、映像を通して、その周りにある人々の思いをどれだけ伝えることができるのか、カメラマンのカメラマンたる存在理由が、よりいっそう求められていくだろうと感じている。

NHK
報道局 映像取材部長
坂本 務





10月のコラム


(日刊・森田)

【写真】巨人・小笠原がはじき返したインパクトの瞬間
【写真】巨人・小笠原がはじき返したインパクトの瞬間


《写真力》
 ありのままを写しとること。またその写しとった像…。

 あらためて「しゃしん」を辞書でひいてみた。すると、このような文言が最初に出てくる。実は現場時代はプロ野球を中心にペンの世界が主戦場。半年前に写真へ移って以来、毎日膨大な数の写真を前に「ありのまま」の重みをかみ締めている。

 私たちが日々接することが多いスポーツも例外ではなく、この原稿を書いている9月のある1週間も、そんな思いで写真に接した。手前みそで恐縮だが、たとえば次のような写真が小紙に載った。
 ◆サッカー日本代表のFW森本がグアテマラ戦で先制のヘディングシュートを決めたシーン。タイミングがドンピシャの写真は森本と相手DF、ボールとともに、森本の頭から汗がほとばしっている様子もとらえていた。
 ◆巨人が中日に敗れ3位に転落した試合で、小笠原が中飛に倒れたシーン。バットが球をはじき返したインパクトの瞬間をとらえた写真は、バットの中央が捕手側にしなっていた。常識ではバットの先端が捕手側にしなるはずだが、球威が勝ったのか? そんな想像をたくましくさせるシャッタースピード5000分の1が見せてくれた世界。
 ◆エンゼルス松井のバットの握りが変わっていることに担当カメラマンが気づいた。構えたときの左手親指のバットへの添え方と、左ひじの角度。小さな変化だったが、並べて掲載すると一目瞭然だった。

 こうして文章にすると、私の筆力が乏しいこともあって何と分かりづらいことか! いや、だからこそ写真が求められるのだ。写真に力があれば、説明はいらない。

 そんな「ありのまま」を写しだすすごさや奥深さをかみ締めながら、写真とカメラマンの世界に引き込まれ続けている。

 もちろん、一瞬を切り取るために必要なのは技術やタイミングだけではない。担当カメラマンによれば、松井のフォームが小さなところで変化していることに気づいたのは、打撃練習を毎日望遠レンズを通して見ていたからだという。こんな話も聞いた。1シーズン、プロ野球を取材していると、投手の癖が分かるという。好、不調が顔や態度に出やすい投手もおり、そんな投手が多いチームもあるとか。

 ニュース写真以外でも、説得力が増す「ありのまま」がある。たとえば、投手がよく口にする「腕を振る」。ある投手が得意のカーブを投じた際、球が手から離れる瞬間を横からとらえると、なんと指先より球が後ろ側に写っていた。

 カメラマンにとっては、このように写真が撮れることは特別なことではないという。肉眼では知りえないシャッタースピードと望遠レンズの世界で、いくつもの「引き出し」を秘めながら、いざというときの1枚を生み出そうと格闘しているのだ。そんな魅力的な世界の仲間に入れてもらって半年。私自身、まだまだ発見をしたいし、力のある写真を読者に一枚でも多く届けたいとの思いを強くしている。

 日刊スポーツ新聞社
 写真グループ長 森田久志





9月のコラム


(デイリー・佐藤)

殺人スライディング
【写真】1992年11月、秋季キャンプでスライディングの見本を示す巨人・長嶋監督=宮崎市民球場(筆者撮影)


《殺人スライディング》
 1992年秋、ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄の監督復帰に日本列島は沸き返っていた。私も少年時代に憧れた一人で、この商売を志したのもミスターに会いたい一心からだった。第一志望の報知新聞には書類選考で振るい落とされ、なぜかデイリースポーツに拾われることになったのだが・・・・。
 
 そしてミスターが監督として始動する秋季キャンプを取材する幸運に恵まれた。以前このコラムにサンスポ・藤原部長も書いていたが、私も毎朝5時に巨人軍の宿舎へ行ったクチだ。まだ若い盛りだから、朝まで飲み明かしその足で宿舎へ行った。結局、キャンプ中にミスターが散歩に出ることはなく、張り込みは失敗に終わった。正確に言うとキャンプ序盤に一度散歩に出ようとしたらしいが、ロビーに大勢の記者、カメラマンがたむろしているのを見て取りやめたらしい。後日ある人から聞いた。あれだけ多くの人間がいて目撃情報がまったくなかったのは、皆ロビーのソファーで眠っていたからだ。
 
 そんな狂騒曲が鳴り響くある日の昼下がり、原稿の打ち合わせで巨人担当の鬼キャップが私に言った。「今日の原稿は“殺人スライディング”で決まりだな!」目をぎらぎらさせ、かなり興奮していた。
 
 「?????」何を言っているのかさっぱり理解できなかった。「そうか、おまえいなかったな。長嶋さんがスライディングを教えたんだよ。なんだったら1枚あげようか?」やりとりを横で聞いていたSニッポンのベテラン、Kカメラマンが教えてくれた。ミスターから目を離すという最大の愚を私は犯してしまったのだ。デスクや先輩からは「ネガをもらうな!」という厳しい教育を受けている。生きた心地がしなかった。
 
 その直後、放心状態でグラウンドを見ていた私の目に、ライトポールへとダッシュするミスターの姿が見えた!私もカメラと400ミリをぶら下げライトポール目がけ追いかけた。必死だった。ウサイン・ボルト並?のスピードで走りに走った。そして何とか追いついた。
 
 カメラを構えた瞬間、ミスターが「足をカギカッコにして〜」と長嶋語を発しながら「ザザザー!」と芝生を滑った。肩で息をしながら懸命にシャッターを押した。人差し指がわなわなと震えていた。ミスターは私のため?にもう一度パフォーマンスを見せてくれたのだ。その時は本当にそう思った。とても56歳とは思えないほど格好よかった。
 
 だが“殺人スライディング”にはとても見えなかった。横にいたNスポーツのUカメラマンにおそるおそる取材した。
 「さっきの(スライディング)はどうだった?」
 「まったく一緒ですよ。今の方が絵的にはいいかも」
 
 彼は絶対にうそをつかない男だ。生き返った気がした。残念ながら1面ではなかったが、紙面に穴を開けるという最悪の事態は免れた。Kデスクに殴り倒される心配もなくなった。
 
 18年たった今でも、ミスターが夢に出てくる。派手なパフォーマンスを見せるのだが、なぜか私がカメラを持っていなかったり、シャッターが落ちなかったりする。そして目が覚める。額には脂汗が浮いている。その原体験が“殺人スライディング”にあるのは間違いない。
   
 
デイリースポーツ写真部長
佐藤 厚





8月のコラム


(東京中日スポ・星野)

日本がワールドカップに初出場したフランス大会の開幕戦でスコットランドに勝利して喜ぶブラジルのサポーター=1998年6月11日、パリ・サンドニ競技場で 【写真】日本がワールドカップに初出場したフランス大会の開幕戦でスコットランドに勝利して喜ぶブラジルのサポーター=1998年6月11日、パリ・サンドニ競技場で
(筆者撮影)


「『W杯』にちょっと違和感」
 オールスターゲームが終了して、プロ野球はいよいよ後半戦に突入しました。古くから日本人は節目を大事にしてきましたが、報道の世界も例外ではありません。ワールドカップやオリンピックなどの大イベントでは、「開幕まで一年」や「あれから一ケ月」など節目に合わせた紙面を作成します。特にスポーツ紙ではプロ野球のキャンプインやペナントレース開幕日は特別な日で、各社が独自の視点で一面を競い合います。担当カメラマンも選手と同じような高揚感や緊張感を持ってその日を迎えているはずです。オールスターゲームが終わるとシーズンの折り返し。球団、選手にとっては大きな節目で、好位置にいるチームはさらに上を目指し、下位に甘んじているチームは心機一転の巻き返しを図るチャンスです。ファンの心躍る好ゲームを展開して、一面をにぎわしてほしいものです。
 
 冒頭から「オールスターゲーム」や「ワールドカップ」「オリンピック」と記してきましたが長たらしく、さらに片仮名が多くて読みにくく感じませんか? 新聞ではそれぞれを「球宴」「W杯」「五輪」といった略表記を用いて紙面化しています。見出しや記事の字数が限られている新聞ならではの工夫ですが、文章がコンパクトになる上に、文体も滑らかで全体的に読みやすい紙面になります。今ではテレビや雑誌にも使用され、読者にも広く受け入れられている略表記ですが、「W杯」については多少論議があるようです。私の回りにも「あまり好きな言葉じゃない」という人は少なからずおり、サッカーが好きな人ほど違和感を持っているようです。
 
 「五輪」は五大陸を五色で表現したシンボルマークを由来とした素晴らしい言葉だと思います。読売新聞社の記者が考案したと言われていますが、オリンピックという壮大なスポーツの祭典を端的に表現しながら、日本語としても美しいと思います。「球宴」もまあまあでしょう。「オールスター」を直訳したわけではなく、野球をイメージしながら、華やかさとお祭り気分のような雰囲気が伝わってきます。対して「W杯」には由来や創造性がなく、肝心な世界観もありません。そもそもW=世界とするには無理があり、事務的な言葉の域を出ていません。
 
 では、どう略表記すればよいのか。「World Cup」をそのまま日本語に置き換えると「世界杯」となり、何の大会なのかわからなくなります。では頭文字を取るとどうなるか。「WC」…これはちょっと。結果として「W杯」となったのもやむを得ないような気がしますが、さらに発音も問題です。「ダブルはい」なのか「ダブリューはい」なのか。どちらにしても語感がよろしくありません。今回の南ア大会のテレビニュースを注意して聞いていたら、アナウンサーは「ダブルはい」と発音していましたが…。
 
 スポーツに限らずワールドカップを冠する催しが乱立していますが、ワールドカップと言えばサッカーのワールドカップのことを指します。その正真正銘のワールドカップを「W杯」と記すことや、「ダブルはい」と呼ぶことにファンは違和感を覚えるのでしょう。新聞紙面は略表記のオンパレードで、日々「新語」も誕生しています。むろん読者の立場に立って考えた言葉なのですが、評判の良いもの、お叱りを受けるもの玉石混合です。先ほど「南ア大会」と記しましたが、次回の2014年ブラジル大会はどう略されるでしょうか。漢字の「伯剌西爾」は馴染みが薄いので頭文字をとった「伯大会」になることはないでしょう。「ブ大会」もまさかとは思いますが、テニスのデビスカップを「デ杯」と略す新聞業界ですから少し心配です。
 
 当たり前に使っている略表記や言い換えが、実は事の本質を損なうことになっていないか。「W杯」が「絶対ダメ!」とは思いませんが、新聞を生業とする私たち自身が節目、節目に見つめ直す、考え直すことが必要だと考えます。あれこれ愚痴のようなことばかり記してきましたが、何か「W杯」に代わる素晴らしい略表記はないでしょうか。世界観があって、夢や熱気を感じられ、そして日本語としても美しい…。次大会までにどなたか妙案を!
 
 
東京中日スポーツ
写真部長 星野浅和





7月のコラム


(夕刊フジ・清藤)

速報が“命”の夕刊紙


 《速報が“命”の夕刊紙》
 夕刊紙といえば、仕事帰りのサラリーマンが満員電車の中で身を小さくして読んでいるイメージが強い。きわどい見出しで駅の売店に並んでいるアレだ。中身は政治からスポーツ、ギャンブルにゴシップ、三面記事のなんでもござれ。
 
 世のお父さんたちが酒の肴にしたりと“役立つ”?情報が満載。当然、写真も多岐にわたる。政権交代など世間の耳目を引く出来事があると、一面は政治一色。芸能スキャンダル発覚ともなると、連日追っかけまわす。
 
 元グラビアアイドルでストリップデビューしたKさんの場合がそうだった。浅草の劇場の出入り口全てにカメラマンを張り付けるライバル紙もあった。うちは朝からエース一人を投入。「Tスポ、すごい人数来てますよ。応援は(出してくれますか)?」「今はなし。スポーツ(担当デスク)に頼んで昼から出すわ。ま、それまで一人でがんばれよ」非情な命令を出さなければならない。
 
 Kさんは報道陣のあまりの騒ぎように、劇場に入るのを躊躇していたようだ。結局夕方近くに裏口から入ろうとしたKさんは100人近い報道陣に囲まれる始末。もみくちゃになりながらの“撮影会”。うちのエースもどうにか撮れたようだ。芸能ネタは、尽きない。結婚、離婚、不倫。薬物汚染なんて事件にからむこともある。
 
 覚せい剤取締法違反の罪で起訴された女優のSさんが、拘置されていた警視庁東京湾岸署から保釈されるのは夕方の4時過ぎの予定だった。通常の夕刊フジの締切り時間はとうに過ぎている。編集局長の「事件発覚後、初めて公の場に出るSさんの表情を一面に載せたい」との判断で、すでに4人のカメラマンを送り込んでいる湾岸署に写真の電送要員として写真部員を追加した。
 
 頭を下げ、神妙な面持ちのSさんの写真が本社へ送られてきたのは10分後だった。さっそく紙面が刷られ、山手線の主要駅の売店に並んだ。速報が“命”の夕刊紙ならではのドタバタ騒ぎだった。
 
 さて、夕刊紙の速報は芸能、事件ばかりかというと、そうではない。欧米で行われるスポーツイベントは、日本時間の未明から昼ごろが多い。メジャーで活躍するイチローや松井の試合はデーゲーム、ナイターで時間のずれはあるが夕刊時間帯である。今まさに開催されているサッカーW杯南アフリカ大会では、日本代表がデンマークを3対1で破り、決勝トーナメント進出を決めた試合が終わったのは朝方。朝刊各紙は号外を出さざるを得ない時間帯だ。
 
 夕刊フジも号外に負けていられないと、締切り時間を1時間以上早めて出稿。写真はリアルタイムでAP、ロイターの海外通信社や共同通信から続々と配信されてくる。もちろん産経新聞グループからも2人のカメラマンを特派員として送り込んでいる。
 
 本田だ、遠藤だ、岡ちゃんだと写真選定は盛り上がる。結局一面はAPの写真を使ったが、特派員の写真も掲載できた。このページに添付した写真は、左側が当日の夕刊フジの一面。右側は「前垂れ」というもので、駅の売店で新聞の束の前に垂れ下げ、当日の紙面の読みドコロを紹介するためのものだ。
 
 イチ押しがある場合は大きく写真を使って目立たせることもある。興味をひく写真があったら一度ご覧いただきたい。
 
 
夕刊フジ写真報道局
写真部長  清藤 拡文





6月のコラム


(報知・多田)

W杯とカズ
W杯とカズ


《W杯とカズ》
 このコーナーで何を書こうかと思い悩んでいた時、テレビニュースでカズ(三浦知良)がサッカーW杯南アフリカ大会の日本代表発表について、記者に囲まれている映像が流れてきた。インタビューに真摯に答えているカズを見ていると、今更、カズでもないだろう≠ニいうせつない思いがこみ上げてきた。それは私があの瞬間≠目撃した一人であるからだろうか。無性にカズを書きたくなった。このコーナー「コラム」にそぐわないのかもしれないが、カズのことを書かせてもらう。
 
 あの瞬間≠サれは「ドーハの悲劇」。サッカーファンのみならず、多くの日本人の記憶に刻まれた93年サッカーW杯アジア最終予選の最終試合。イラクに勝利すれば悲願の本大会初出場が決まる一戦のロスタイム、イラクのオムラム・サルランに同点ゴールを決められ、Jリーグ元年で浮かれていた、我々の夢物語は現実の世界へ引き戻され、目を覚まさせられた。
 
 当時、まだインフラが整備されていなかったカタール。衛星回線用のパラボラアンテナを持ち込んだ社もあったが、各社でカタール・テレコムに交渉に行き、何とか国際回線を確保。フィルムの時代だったゆえに40℃のカラー現像液を保つため、魔法瓶に液を入れホテルから競技場に持ち込んだ。余談だが、サポーターで来ていた岐阜・金津園のソープのかわいいお姉ちゃんたち≠ェ隣のライバル社に差し入れに来るのを横目でながめたり、試合開始前から、あわただしい1日が始まった。
 
 試合開始時間が16:15(日本時間22:15)。早版に間に合わせるためには、私は開始10分しか撮影できない。前半5分、運良くカズの放ったシュートが、ゴール裏で構えていた私のファインダーに飛び込んできてくれた。後の取材は同僚に任せ、臨時のプレスルーム(会議室)からカズの写真を送信。しかし、同じ競技場にいながら試合の経過が分からない。
 
 後半25分、東京本社でテレビを見ているデスクから中山が勝ち越しのゴールを決めたと連絡が入り、フィルムをピックアップするためにピッチに走った。洗面所で現像を終え、プレスルームに戻る途中、韓国関係者が待機していた部屋から歓声が上がった。
 
 私は不吉なものを感じながら、戻ったその時だった、目の前の電話が鳴り、「ダメだ!同点だ!」それは東京のデスクからの悲痛な叫びだった。私もとっさに「ダメ?」と大声でデスクに聞き直した。周りにいた各社のカメラマンが送信の手を止め、凍りついた。そして時間が止まり、すべてが終わった。
 
 ピッチに座り込んだ選手の中でも、日本中の期待を一身に背負っていたカズはW杯を機に世界に飛躍しようと考えていただけに、落胆ぶりは計り知れないものがあった。82年、カズは15歳で単身ブラジルに渡り、90年には「サントスFC」でレギュラーポジションを獲得した。当時、ブラジルの国民的英雄のF1ドライバー、アイルトン・セナの活躍で、F1もサッカーと並んで人気スポーツだった地元では、ウィングのカズはF1に参戦していた同じ日本人の中嶋悟と比較され、「ナカジマは全然走らないが、カズはよく走る」と称賛されていた。
 
 90年、帰国して読売クラブ(現東京V)に入団。その後の活躍は言うまでもない。カズは少年時代、周りの大人たちから「長嶋茂雄」の話をよく聞かされていた。チャンスに強く、ファンやマスコミにもサービス精神が旺盛な長嶋さん。監督時代、自らポーズを作ってくれたうえ、我々カメラマンとアイコンタクトをとり、首尾よく撮影できたかどうかを確認し、次の行動に移ってくれた。
 
 カズもまた、記者に囲まれると、次の日の見出し≠ワで考えて話してくれた。いつの日かサッカー界の長嶋茂雄≠ノなりたいと思う気持ちが、長嶋さんに会ってからますます強くなっていった。
 
 しかし、「キング・カズ」と呼ばれ、頂点に登りつめたカズだが、W杯には縁がない。98年、フランスW杯の直前合宿の地スイスで、メンバーから外された。体調が万全ではなく、プレーにも陰りが見えてきたカズだったが、日本代表を引っ張ってきた男に岡田監督は非情にも帰国命令を下した。カズを残すぐらいの余裕≠ェ岡田監督にはないものかと思ったのは私だけではなかっただろう。
 
 カズは髪を銀色に染めて帰国。長嶋さんが、自分であって、自分ではないもう一人の「長嶋茂雄」を常に意識していたように、カズも「キング・カズ」を演じなければならなかった。あの銀髪はその表れだったのだろう。
 
 今年で43歳になったカズだが幾つかのチームを渡り歩き、現役を続けている。今回の代表発表でも岡田監督の口からカズの名前は呼ばれることはなかった。翌日、テレビカメラの前でカズは、次回は母国<uラジルだから、行きたいねと話していた。母国の日の丸を背負って、母国≠フピッチに立つために、今日も走り続けるそんなカズに拍手を贈りたい。
 
 報知新聞東京社編集局

 写真部長 多田隆一





5月コラム


(東京・伊藤)


 《新聞の原点》
 写真部に着任したのは昨年6月。あの時、この部に来て、すぐに頭に浮かんだ言葉がある。それは「現場」。外へ次々と飛び出していく部員の後ろ姿を見ていて、反射的に浮かんできた。
 
 新聞の世界に入って30年が過ぎた。ずっと書き手、ペン記者の道を歩んできた。事件でも、事故でも、街だねでも、いつも現場で取材を重ねてきたように思っていた。なのに、写真部に来たら、その「現場」という言葉がなぜか新鮮だった。どうしてか。知らぬ間に、現場から遠ざかっていたような気がして、寂しく、そして恥ずかしい思いがこみ上げてきた。
 
 弊社のことでやや申し訳ないが、約6年前、横浜市の日本新聞博物館で「東京新聞創刊120年展」という催しが開かれた。タイトルの通り、さまざまな展示品によって弊社の120年の歴史を紹介する企画展だったが、当時、横浜支局にいた私は開催の数日前から博物館に足繁く通い、展示品の陳列などの手伝いをさせられた。かなりの重労働。ただ、展示する際に内容をひとつひとつ確かめるため、昔の新聞記事や写真をじっくりとながめることができた。そんな中で、ある記事に目が止まった。
 
 弊紙の前身「都新聞」の記事だった。明治時代に刺殺事件を起こした美人芸者の出獄をスクープしようと、都新聞の記者が張り込み取材する。その現場の様子をこの記者は雑感記事に仕立てていくのだが、この記事が実に生々しく、現場がにおうように書いてある。観察力の鋭さ、表現力の見事さ、現場での粘り…。明治の大先輩の文章を読んで、脱帽した記憶がある。そして、強く感じたものだ。新聞の原点は、やはり現場だと。
 
 当たり前だが、写真は現場に行かなければ話にならない。しかしながら、記事は必ずしもそうではなくなってきた。伝聞、あるいは電話取材…。現場に行かなくても、現場の様子を書き上げる二次的な手段がある。ただ、それに甘えてはいないだろうか。そんな考えがいつも頭の片隅にあったし、新聞全体が甘えの構造に浸食されていくような気がしてならなかった。
 
 通信手段の飛躍的な進歩、官公庁などの行き届いた広報体制、過度になりがちなプライバシーの保護…。そんなさまざまな要素が現場をさらに遠ざけていく。
 
 新聞がおもしろくなくなった、と以前から言われてきた。当たっていると思う。ならば、おもしろくするには…。記者が現場で苦労して撮ってきた写真に多くの手がかりがあるように思える。単純に、素直にそう思う。記事も、現場や現実にもっと肉薄しなければいけないのではないか。やはり、それが原点だろう。
 
 そんなことを考えながら、「現場」を頭によみがえらせてくれた写真部に、感謝している。


東京新聞編集局

写真部長 伊藤憲二





4月のコラム

(サンスポ・藤原)


プロ野球開幕


 プロ野球が開幕しました。我々スポーツ新聞のカメラマンにとって、プロ野球の開幕は特別な日です。選手たちと同様に私たちカメラマンもキャンプ、オープン戦で競い合い、開幕を迎えます。開幕戦は144分の1だと言う人もいますが、我々スポーツカメラマンにとっては唯一の試合なのです。
 
 カメラマンの担当競技、担当球団が決まるのは前年12月です。サンケイスポーツの場合、部長やデスクが協議して決定します。そして、忘年会の席で発表するのが恒例となっています。20代頃の私は、担当の発表前には夜も眠れず、ワクワクして発表を待ったものでした。担当球団を持つことで、1年の仕事の流れが決まるからです。
 
 担当球団が決まると、カメラマンはキャンプ地の宿を予約します。1ヵ月間過ごすのですから、宿の立地、環境はとても重要です。今年は西武ライオンズに入団したスーパールーキー・菊池雄星選手の人気が高く、キャンプ地・宮崎県南郷町の宿が報道陣で一杯になりました。担当カメラマンは宿の確保に苦労したようですね。
 
 キャンプ期間中は朝から晩まで取材の連続です。1992年、長嶋茂雄さんが2回目の巨人の監督に就任した時に、報道合戦がピークに達しました。監督が第一次政権時、未明に散歩に出かけたという情報から、私たちは警戒のために朝5時に起床し、巨人の宿舎に張り込みました。監督が宿舎をこっそり抜け出して近所の青島神社に参拝するという噂もあり、一部のカメラマンは夜明け前に神社の境内に張り込みました。賽銭箱の陰に隠れ、タバコを吸おうと点したライターの炎で他社のカメラマンの顔が暗闇に浮かび上がり、「お化け!!」と悲鳴を上げたカメラマン同士のエピソードは、今では笑い話です。
 
 夜は浜辺に三脚を立て、超望遠レンズで巨人の宿舎で行われる素振り部屋を監視しました。長嶋監督が現れて、誰かを指導したら一面です。こうして紙面に載らないところでもカメラマンの戦いは続くのです。
 
 夜間練習取材後は、決まって宿の近くのスナックで、各紙のカメラマン揃って酒盛りが始まります。実はこれにも意味があります。他社と飲む事で“抜け駆け”を防止するのです。皆が揃っていれば安心して飲めるということです。
 
 2月のキャンプが終わると、3月はオープン戦で各地を転戦します。地方でのオープン戦では予想できないハプニングも起きます。私が最も印象に残っている出来事は前橋で行われた巨人対ヤクルト戦でおきました。残念ながらゲームの中ではありません。それは試合終了後に起きました。両軍の移動用バスは珍しく同じ駐車場に隣り合わせで停められていました。バスに乗り込む両軍選手に混ざって、ヤクルト・野村監督がやってきました。そして、誤って巨人のバスに乗り込んでしまったのです。当時長嶋監督と野村監督は犬猿の仲と云われ、リーグ優勝を常に争うライバル同士でした。もちろん、試合当日も我々のいう「カラミ」(一緒に写真に写ること)はありませんでした。
 
 野村監督がバスに乗り込むと、監督席には長嶋監督が座っていました。野村監督の驚いた様子がその背中に現れていました。そして、お互い気まずそうに挨拶を交わしました。私たちはバスのフロントガラス越しに夢中でシャッターを切りました。
 
 野村監督の名誉のために付け加えますと、取り巻きの記者と話しながらバスに誘導されたための“失敗”だった気がします。もちろん、間違って乗り込みそうな野村監督を見て、我々カメラマンが「しめた!」と思ったことは言うまでもありません。
 
 こうしてカメラマンは、キャンプ、オープン戦と切磋琢磨し、デスクに怒られながら、やっとの想いで開幕を迎えるのです。選手同様「開幕一軍」を目指して・・・。



サンケイスポーツ写真報道局
写真部長 藤原重信





3月のコラム

(朝日・渡辺)


富士
 《新聞写真に思うこと》

 2月1日付けで、朝日新聞東京本社編集局の写真センターマネジャー(写真部長)に就任しました。入社以来28年間、あくせく現場を駆け回ったのが16年で、残りの12年はデスク稼業です。

 写真の原点は究極のスナップだと思っています。「写真は記録。写さなければ意味がない」とよく言われます。なにげない街角の風景やその時代を写した事象など、そこに切り取られている情報量が写真の命ではないでしょうか。

 取材現場を離れて久しいのですが、「いつでも現役復帰」との心構えでカバンのなかにはコンパクトタイプのデジタルカメラを持ち歩いています。スナップが中心ですが、変貌する都心の街並みなどを撮りためています。

 なかでもこだわりをもっているのが「富士山」です。静岡県人としての愛着もありますが、帰省の際や出張時の車窓などから機会があえば撮影しています。おととしまでの福岡勤務時代はその楽しみをさらに満喫できました。羽田発福岡行きの航路が富士山上空を飛行するコースだったからです。山梨県側からみる富士山は裏富士なのですが、その四季折々でみせる姿がなかなか美しく輝いています。早朝便のときなどは「前方左窓側」の席を事前に予約。雲間に隠れてみえないこともあれば、美しく輝く姿、伊豆半島までがくっきりみえる秀峰に一喜一憂しました。

 通常われわれがする空撮とは違い、この撮影は航空会社の機長判断しだいですので、せっかく天気が良くても山の真上過ぎて見えないときもありで、ほんの一瞬しか見ることができない富士山撮影はスリリングでなかなかの醍醐味でした。

 新聞社におけるここ二十数年の最大級の変革は写真でしょう。ものすごいスピードで技術革新が進んだ新聞写真はあっという間に取材した結果が瞬時に得られるデジタル時代に飲み込まれていきました。入社以来、さまざまな出来事に遭遇し取材してきましたが、当時はフィルム全盛のアナログ時代。先輩たちから的確で迅速な暗室処理を求められ、四苦八苦の連続だったことを覚えています。

 しかし、その手作り感のある写真プリントはとても丹念につくられていて、紙面で写真の訴求力を高める重要な役割を担っていました。デジタル化によって写真は誰もが撮れるようになったこともありますが、その表現力が若干淡泊になったような気がするのは考えすぎでしょうか。とはいえ、その速報力は絶大だと痛感していますが。

 朝日新聞に残される約480万枚の古き良きニッポンを伝えるプリント写真。この膨大な写真も順次データベース化され、公開していく予定です。デジタル化の波のなか、動画も注目されているが、個人的にはやはり人々の心に残る印象度の強い一枚の写真にこだわっていきたいと思っています。よろしくお願いいたします。


 
朝日新聞東京本社報道局
写真センター長(4月から組織変更)
渡辺 幹夫





2月のコラム

(日経・山田)

わが家に来たばかりの康平
山田康平1

現在の康平と私
山田康平2
≪まあまあのいいニュース≫

 山田康平、3歳(推定)。2007年5月、わが家にやってきた。その年の1月ころに生まれ、都内の公園に潜んでいたところを保健所に捕獲、収容された。それをドッグシェルターという団体が救い出し、里親を希望するわが夫婦に出会いの機会を与えてくれた。
 体重が4キログラム強しかなかった当時の康平は、人見知りが激しく、よちよち歩いてはすぐに私の背中の陰に隠れた。まともなものを食べていなかったのか、お腹の中にはずいぶん虫がいた。少し大きくなって外を散歩できるようになっても、車や自転車が近くを通ると体を震わせて怯え、匍匐(ほふく)前進した。捕獲、収容された経験がトラウマになっているようだ。
 犬の3歳は立派な大人だ。体重も17キログラムに増え、顔つきも凛々しくなった。外出時の匍匐前進の癖は直らないが、番犬としての役割も覚え、カラス、野良猫、不意の来客には果敢に吠える。勤め帰りの私には、激しくしっぽを振って出迎えてくれる。 
 毎朝、近所の公園までの散歩を日課としている。うれしそうに飛びついてくる康平。私はそれを両手でしっかり抱き止め、心臓の鼓動を聞き、ふさふさした毛に顔を埋め、「康平、康平」と呼びかける。最高に幸せな瞬間だ。これを康平も私も、毎日毎日、飽きもせず繰り返している。不思議なのは、何百回やってもこの幸福感が一向に色褪せないことだ。
 ナシーム・ニコラス・タレブという文芸評論家が書いた「ブラック・スワン」という本に、おもしろい記述があった。ちょっと長いけど引用してみる。

  実際のところ、幸福はいい気分の強さより、いい気分になった回数のほうにずっと強い影響を受ける。心理学者たちはいい気分になることを「ポジティブ感情」と呼んでいる。言い換えると、いいニュースはとりあえずいいニュースだ。どれだけいいかはあんまり関係ない。だから、楽しく暮らすには小さな「ポジティブ感情」をできるだけ長い間にわたって均等に配分するのがいい。まあまあのいいニュースがたくさんあるほうが、ものすごくいいニュースが1回だ けあるよりも好ましいのである。

 人間は太古から、飲んで、食べて、寝てという原始的な行為の継続にささやかな喜びを感じるように作られている、とタレブは言う。慧眼(けいがん)である。科学が進歩し、職業が多様化し、生活が複雑さを増したとしても、この原理は変わらないのかもしれない。
 そんなことを考えていると、近年の新聞報道が読者を惹き付けなくなっているのも、何となくわかってくる。一人の政治家を失脚させなければ日本はだめになると叫び、基地問題が合意通りに解決しなければ日米関係が戦争状態に陥りそうなほど悪化するとがなり立てる。小さな事実を伝えるよりも大仰な提言で一面を飾ることを好み、読者の不安と焦燥をあおる。それでなくても日々の生活は苦しいのに、新聞を読むともっと辛くなるというのでは、たいがいの人は新聞を放り投げるだろう。
 どうすればいいか。確信は持てないが、タレブの言葉を信じて、まあまあのいいニュースを、できるだけ長い間にわたって、継続的に紙面に載せる努力をするというのもありのような気がする。ということで、2010年は、記事も写真も「まあまあのいいニュース」に注目したい。 


日本経済新聞社編集局
写真デザインセンター長 兼 写真部長
山田 康昭



2010年 年頭挨拶

(事務局・花井)

 明けましておめでとうございます

 皆様のご清福を心からお祈り申し上げます。今年もよろしくお願いします。

 昨年暮れ、日本橋三越本店で開催された「2009年報道写真展」は、天皇、皇后両陛下の行幸啓を仰いだほか、09年のマン・オブ・ザ・イヤーと言える鳩山由紀夫総理夫妻が来場。また、ご自身も写真を撮影される高円宮妃久子さまも鑑賞に来られました。VIPの相次ぐ来場が影響したのか、入場者は三越調べで約4万人以上と、一昨年と比べ約1万人増となりました。50回目の節目にふさわしい活気溢れる報道展となり、開催にご尽力いただいた関係者各位に改めて感謝申し上げます。

 会場に展示された約280点の作品を一点一点頭に浮かべてみると、写真記者が事件事故、スポーツ、話題ものなどを追い求めて真摯に、中には命がけでシャッターを切った力作、労作ばかりです。写真という媒体が持つ、強いメッセージ性を再認識させられた思いです。来場者に自由に書いていただく「感想ノート」には、今年も「感動した」「思いの宿った写真に言葉を忘れた」「さすがプロカメラマン、うまい」などお褒めの意見が多く寄せられました。一方で、「皇室の写真が多すぎる」「テレビで見たものばかりだ」などとちょっぴり辛口な意見も頂戴しましたが、われわれはこうした声も謙虚に胸に抱き、成長の糧にしなくてはいけません。
 
 さて2010年は、2月にバンクーバー冬季五輪、6月にサッカーW杯南アフリカ大会と大きなスポーツイベントが控えています。後半に入ると、7月に参院選挙が予定されています。政権交代後、初の大型国政選挙であり、有権者が参院でも民主党に単独過半数を与えるか、自民党が巻き返せるかが焦点です。結果によっては、政界再編のうねりが起きかねません。また、10月にはCOP10(生物多様性条約第10回締約国会議)が名古屋で開催。地球環境問題に重きを置く鳩山政権のもと、日本のイニシアチブでどこまで有意義な枠組み作りが進むのかが注目されます。

 以上のように、今年も写真記者の出番は目白押しです。社会の隅で苦しんでいる人たちの現状を、スポーツ選手が描く伸びやかな表情を、政治家が繰り広げる人間の機微の一瞬を、写真記者たちがどう切り取って伝えてくれるのか、今から期待が膨らみます。われわれの責務は、月並みですが、読者のためにより早く、正確な、分かりやすい写真報道を心がけることです。愚直に取材対象にぶちあたっていけば道は開けてくると信じています。今年も元気印で、自然体で、やりぬきましょう。


2010年1月
東京写真記者協会
事務局長・花井 尊


12月のコラム

(共同・上妻)

土下座
≪レトロ写真≫

 11日の総会で君波昭治・前常任幹事から業務を引き継ぎました。よろしくお願い申し上げます。
 10月まで在籍した写真調査部では昔の写真を見ることが多かった。昨秋から、共同通信は自社著作物を利用した発信の視点で毎日1枚「レトロ写真−あのころ」の配信を開始し、約1年間、出稿作業を担当した。過去に起きた日付をキーワードにして、数年から数十年前の写真に100字から150字の写真説明を付けて配信するもので、社の倉庫やデータベース保存の写真を新たに発信して活用を図るのが目的。

 写真探しは手探りの状態。発掘は写真部OBの方にお願いした。資料写真の著作権の確認や事実関係の調査、画像の修復など思いのほか手間がかかる。写真は「懐かしい」「ほのぼの」がキーワード。しかし、これらの写真に説明を付けるのが大変。アルバムの日付は撮影日なのか送信日なのか。撮影場所も無いのが多い。説明はやはり当時の新聞の情報が最もあてになり各紙の縮刷版を参考に作業した。

 「だっこちゃん」「フラフープ」「月光仮面」「力道山」「街頭テレビ」など見る人を昭和へいざなうテーマも発信できたと思っている。また、歴史的な節目の「終戦の日」「ミズーリ上の降伏」など重要なテーマも取り上げた。また、全然知らなかった新発見のテーマもあった。ひそかに自分の写真も潜り込ませた。

 8月15日付「太平洋戦争が終結」の写真は、同盟通信時代の大先輩の撮影。現在手元に残っているのは35ミリフィルムで15コマのネガ。終戦の日の写真について新聞社から取材を受けたこともあり大先輩のネガをじっくり見た。これが面白かった。
撮影時間は全コマとも、昼前後、天候は晴れ。前半に兵隊か、もしくは軍服姿の集団が行進している背景に皇居・二重橋が見える。一般の人も多いが表情が暗い。しかし、座り込んでいる人は見当たらない。

 後半のコマには、正門前で座り込んでいる人、泣いている人、直立している人、歩いている人が見え、国民がいろいろな思いで終戦を迎えた事実を伝える貴重なシーンとなった。
写真はあまり被写体に近づかずに撮影されている。全体的におとなしい印象。

 一連の写真は当日加盟社に送られた記録はない。撮影した内容から見ると、脚立を使用した形跡ない。泣く人も遠くから望遠レンズでまとめている。自分だったら被写体にワイドレンズでもっと寄って撮影したいと思うが・・。おそらく翌日に紙面には絶対に掲載されない群集のシーンを撮影したのも、終戦の日に何があったかを冷静に伝えようとしたのではないだろうか。

 結果的には当時各紙に掲載された「土下座」以外の写真も残った。古い写真を見ると撮影者の「息遣い」が伝ってきて、しばし「タイムスリップ」する楽しみを味わうことができた。


2009年12月
共同通信社ビジュアル報道センター写真部長 上妻聖二


11月のコラム

(産経・佐藤)

≪時代は変われど≫

 以前、弊紙のコラム欄に、カメラのデジタル化がもたらした写真記者の仕事の変貌ぶりについて書いたことがあります。フィルムカメラ時代の取材体験を織りまぜながら、最新のデジタル技術を大いに利用し、写真表現の更なるレベルアップに努めていきたいという思いを読者に伝えました。その一方で、デジタルカメラしか知らない入社したての若手の写真部員に、普段はあまり口に出して言えないような話を、『この場を借りて』アナウンスしたいという思惑もありました。

 「フィルム世代は、どうがんばったところで36回シャッター押したらそこで一区切り。ピントは手動、露出もマニュアル。フィルム交換を計算したり、思ったとおりに撮れているか不安になったり、出張先のホテルではバスルームで現像液の温度管理をして慎重にフィルムを現像。ネガからベストショットを選んだら電話機に電送機をつないで、20分近くかけて1枚のカラー写真を送っていたけれど、今じゃ、カードでいくらでも撮り放題。画像もその場で確認できて、軽くて薄いノートパソコンで加工したら、その場からピューンといっぺんに送り放題の幸せな時代に新聞社のカメラマンやってるんだから、もっと斬新な写真を撮って紙面をもっと面白くしてくれよー!」という(かなり長い解説ですが)、熱い思いを行間に滲ませつつ、エールを送ったわけです。

 果たして、その思いが通じたのかどうかわかりませんが、コラムを読んだ、ある若手女性部員から、「昔は写真を撮った後にフィルムを現像したり、電送も、ものすっごーく時間がかかったり、本当にたいへんだったんですねぇ〜」と、慰めと哀れみが入り交じったような、なんとも名状しがたい表情で見つめられた後に、「でも、今は便利な時代になって本当によかったですねっ!」と明るく屈託のない、実にストレートな感想をもらったのですが、私はフンフンと頷きながらも、「そんなに昔かなぁ。うーん、なんかリアクションがちょっと違うなぁ」と心の中でつぶやきつつ、「まっ、そんなもんか」と妙に納得した次第でした。

 無理もないです。デジタル世代の若い写真記者に、アナログ世代が経験した職人的な技術など理解できるわけありません。二十数年前の新人時代に、先輩カメラマンやデスクから、「一枚勝負!」のような緊張感あふれる取材現場の話を聞いた時に、「そりゃ、たいへんだわ。今はモータードライブとズームレンズがあってよかったなぁー」と、ノーテンキに思った感覚に少し似ていると思ったからです。それにしても昔の写真記者って、今振り返ると思わず笑ってしまうような、「家内制手工業的」な作業が多かったような気がします。

 今、デジタル時代の最前線で働く写真記者は、アナログ世代とは性格のまったく違う職人技や苦労を背負いながら仕事をしているように思います。写真を撮る以外にパソコン上ですばやく画像を選んで的確に処理できるエディター的能力や、どんどん改良が加わるデジタルカメラや通信機器に精通した「メカを使いこなす」能力も求められます。プライバシーや肖像権の高まりで、昔では思いもよらなかったトラブルに遭遇することもあり、取材上の制約も以前に比べ増えつつあります。撮った写真が紙面に掲載されるまでの過程が劇的に進化したことで、極端に言えば、ひとりで仕事を完結することも可能です。前述の女性部員が言うように、本当に便利な時代なのですが、フィルム時代に写真記者の青春を過ごした身からすれば、仕事の流儀があまりにも変わってしまいました。

 あの頃も、写真記者は個人プレイヤーではありました。でも、取材した写真が紙面化されるまでの間に、いつも誰かが介在していたような気がします。たとえば暗室の中で、皆でワイワイ議論したり騒いだりしながら写真を批評しあったり、表現力やプリント焼きの上手な技術を学んだり、現場の失敗談を聞いたり・・・、とても感傷的ですが、「人の匂い」を感じながら仕事をしていました。
パソコンが何台も並んでいる職場では、今日も次代を担う写真記者が黙々とディスプレイに向かっています。彼らの背中を眺めつつ、あの牧歌的でアナログチックな日々を懐かしむ今日この頃です。


2009年11月
産経新聞社 写真部長 佐藤一典


10月のコラム

(東スポ・米田)

「張り込み」に思う 「張り込み」に思う

 夏休み期間中は「政権交代」の総選挙で美人候補者や当落予想でも特集しようかなぁ・・・
なんてのんきな事を考えていたら、お盆前にほぼ同時に起きた押尾学と酒井法子の2つの事件で、てんやわんやの大忙しになってしまった。毎年8月は弊社のような駅売り主体の新聞は「夏枯れ」といわれる現象に見舞われ、部数が落ちるのが常なのだが、読者のこの事件への関心の高さからか、わずかながら販売部数を伸ばしてくれた。

 ネタを拾ってくる記者ももちろん大変だが、なにより大変だったのは現場カメラマンだ。逮捕や送検で警察車両の透かし撮りは私自身も何度か経験があるが、いざ本人を乗せた車両が来る時には独特の緊迫した空気やアドレナリンが出て戦闘体制に入る。場数を踏めば踏むほど落ち着いて撮れるようになるのだろうが、最初のうちは違う人物を写してしまったりガラスにストロボが反射したり、あるいは光ってなかったり、ギラギラとした感じが目立ちすぎて警官に邪魔されたりと散々な思い出がある。

 今回の事件の中継を見ていても、規制されているエリアもあっという間に無法地帯になり、カメラマンが転んでいたり機材がふっ飛ばされていたりと、まさに昔と変わらぬ修羅場だ。ロス疑惑の三浦和義逮捕、オウム真理教の強制捜査で極寒、濃霧、悪臭、雨でぬかるむ上九一色村の張り込み。「絶対に負けるなよ!」と先輩に送り出された思い出がよみがえる。

 先日の押尾被告保釈の際には関東に接近した台風11号の影響で強風と土砂降りの雨の中、三田署や三田署以外の持ち場で保釈の時に備え、ずぶぬれになりながら張り込んだカメラマンの苦労を考えると現場は大変だとつくづく思う。もちろん取材にはもっともっと過酷なものもたくさんあるだろう。しかし現場を離れて今、記憶に残る思い出とは、こういった修羅場で同業他社の方と同じ目的のミッションに参加し小競り合いや助け合いをしたという一体感が一番の良い思い出だ。「同じ釜の飯」を食ってきた仲なのだろう。

 現場にいたものだけが撮れる写真はうそをつけない。どこの社がどこで何を撮ったかも瞬時にわかる。事件現場は、みんなが公平に撮れるわけではなく明暗が分かれる現場だ。現場にいなければ撮る権利さえないからお地蔵さんのようにどんな状況でもひたすら待つ。あるときは非情な運にも左右される。撮れたのか撮れなかったのかで疲労感は天地ほど違う。撮れれば祝杯、撮れなければやけ酒だ。

 通常の取材と違い「張り込み」は待ち時間に情報交換をしながら飛び交うデマにもざわめき翻弄される。時にはさまざまな暇つぶしをしながら自身のいろいろな事を考える時間もあるだろう。
長くいればいるほど、交代要員と交代するとすぐにチャンスがやってきそうで交代したいのに交代したくなくなる。そんなジレンマとも戦いながら有事の際のリハーサルをして無念無想の境地に到達する。

 今は部員を送り出す立場だが、きっとみんな悪条件の取材に腐らず、修羅場を前向きに経験することで自信を持ち、よりステップアップしてくれると信じている。

2009年10月
東京スポーツ新聞社 編集局
写真情報システム部長 米田和生


9月のコラム

(時事・渡瀬)

≪いい写真とは≫               

 仕事柄、「いい写真を撮りたい」とか、「いい写真を撮れ」とか言うが、それでは「いい写真とはどんな写真?」と考えることがある。知人に「これはいい写真だね」と話しかけた時、「ええーっ?!」と否定的な反応もあれば、「そうね」と同意される時もある。

 一般的に写真の「いい悪い」は、人の感性が判断の基準なのだろうか。個性的な芸術作品ならば「感覚の差」で片付けてそのままにしておけるが、我々が携わっている新聞写真を含む報道写真はそういうわけにはいかない。記録性に加え、ニュースを読者に伝える役割が大きいので、「写真も自己表現の一つ」として内容が伝わらなくてもいいや、と済ませるわけにはいかないのだ。かといって中味が伝われば絵柄はどうでもいいというわけでもない。そこが難しい。

 その点スポーツ写真は分かりやすい。記録性はもちろんだが主な基準は「迫力がある」か、「美しい」か、で決まり、「いい悪い」がすぐに分かる。写真を見れば競技名も分かるし、構図もきれいなものを選んで出稿するので、極端な話をすれば、100点か0点の場合が多い。

 反対に事件、事故などは、記録性、証拠性という要素が入ってくるので、その要素が強ければ強いほど構図や絵柄が悪く、迫力がなくてもボツにしない。少々ピントがあまくてもそれしかなければ使用する。この手の写真は「証拠写真」と呼んでいた。これはこれで必要な新聞写真で、テレビドラマの裁判シーンで使われる殺人現場の写真を想像すると分かりやすい。現場を忠実に写すことを目的にしているので証拠能力は高いが写真表現としての構図の遊びなど、取材者の個性、感情は出ていない。

 かつて取材した米価審議会の答申取材は、答申が出る時期が分からず、農水省の別館で張り込んで大臣に答申を手渡すだけの数秒のセレモニーを撮った。これこそ答申が出たという「証拠写真」の極みだ。当時はデスクに「生産者が掲げる『むしろ旗』が並ぶ写真のほうがよくないですか?」と売り込んだ。なぜむしろ旗を推したのか。それは答申場面よりも生産者が生活の実情を訴える言葉を書いたむしろ旗のほうが「絵」になっていたからだ。この「絵」になっていることが「いい写真」の条件の一つではなかろうか。

 米価審議会答申は双方の顔が見える場所を確保するための技術は必要だが撮影そのものは高度な技術がとくに必要というものではなく、モチベーションは上がらなかった。図柄もただ答申を渡しているだけで感動も与えない。紙面で見せられている読者も「答申が出た」という記号として何気なく見ていたのではなかろうか。ニュース写真として「絵」になっていなかった。

 写真撮影は技術が必要だ。写真の意図を正しく伝えるにはそれなりの技術がないと写真表現はできない。では技術で「絵」にすればそれでいいのだろうか。

 以前、この道何十年の撮影歴があるプロ、アマ写真家の作品の中にたった1日、コンパクトカメラを渡された小学生たちが自由に写した作品を展示した写真展があった。そのベテラン写真家たちには申し訳ないが、子供たちの写真の方がよかった。写真家の風景写真は構図などしっかりしていて「絵」になっていた。逆にこどもたちの写真はそれなりの構図であまり「絵」になってはいない。だが感じるまま素直に撮っているのか人物の表情がいいし、身近な風景の色などがとてもよかった。

 なぜそう感じたのだろうか。違いは撮影時の感受性や感動の度合いだと思う。子供たちは感動しながら写真を撮っている。「きれい」、「おもしろい」と思えばそれらをストレートにとらえていた。写真家は技術に頼りすぎて感動の表現を置き忘れていたような気がした。

 いい写真の条件が少しわかったような気がしてきた。同レベルの写真家が一つの被写体を撮った場合、構図、シャッターチャンスが同じなら「いい写真かどうか」の分かれ目は、自分が感動して撮影しているかどうかが分かれ目になるのではなかろうか。つまり被写体への入れ込み具合で写真に差が付く。感動して撮影するとなぜか見る人にそれが伝わっていく。

 報道における「いい写真」の条件とは記録性があり、しっかりした技術に支えられた表現で、見る人にニュースを的確に伝え、感動を与える写真と定義されるのではないだろうか。見る人にいい写真と感じてもらうには最後の味付けとして、自分が感動して撮影したかどうかがキーポイントになると思う。

 しかし、まだまだ「いい写真とは」の思考は続く。


時事通信社写真部長 渡瀬啓一郎


8月のコラム

(日本農業・大石)
安全の押し問答 「安全の押し問答」 


 「なぜ取材をさせないのか、理由は?」「おたくの社の希望にはそえません!」。その日、私は港区にある東京都中央卸売市場食肉市場の正門前で、都の職員と1時間にわたって押し問答した。

 2001年9月に千葉県内で発生した得体の知れない牛の病気、牛海綿状脳症(BSE)に国内の畜産農家は頭を抱えた。人間に感染する可能性もあるとの海外事例もあり、消費不振が極まり牛肉価格は大暴落、市場取引も中止になった。

 国はこの事態に対応するため、国内の牛をすべて検査する緊急対策に乗り出した。当時、取材記者だった私は、「検査済みの牛肉のせりを再開する」との内容の東京都の会見に出席した。せり場を記者に見せ、別室で市場長が概要を説明し「検査済みの枝肉には安全の判を押します」と発言し、会見は終わった。

 この内容をデスクに伝えたところ、「判を押した枝肉の写真をすぐに送稿しろ」との指示。「撮影の時間は設定されていませんでした」と答えた後は、電話口からお定まりの言葉が飛んできた。「ばかもん、何とかしろ」。ここから都の職員と押し問答が始まったのだ。こちらは牛肉の安全性をアピールする原稿と写真を撮りたい一念。しかし、頑な都職員の態度は覆らず。「もういい。頼まん。自分で何とかする」と一撃をかまし、知り合いの仲卸業者に直談判。「そうゆうことなら、力になるよ。ついてきなさい」と市場内の冷蔵庫に案内され、同行の写真部記者(現・福本卓郎写真部次長)が快心のショット。これに「安全の太鼓判」の見出しを付けて、紙面に掲載することができた。このカットはこの年の報道写真展で展示されたことは記憶に新しい。

 食料自給率が4割を切る日本。国産、輸入物を問わず、食の安全は全国民の願いだ。生産、流通、消費の一連の流れを、カメラで追い続けていきたい。

2009年7月
 日本農業新聞社 写真部長 大石雅敏


7月のコラム

(デイリー・菊地)
広陵  


 「オレにできるかなあ?」
 「大丈夫ですよ。教えた通りやればいいんです」
 「でもなあ…」
 「じゃあ、お願いしましたよ。よろしく」
 忘れもしない。06年10月3日深夜、広島、流川通りの入り口にあるデイリースポーツ広島支社での私とSカメラマンの会話である。当時の私は支社の編集部長だった。その夜は翌日に山口・下関球場で開催される秋季高校野球・中国大会準決勝の打ち合わせをするはずだった。地元の広陵が山口・宇部商とセンバツ出場権を賭けての大一番である。
 しかし、突発的なアクシデントが起こり、Sカメラマンは取材をキャンセルすることになった。打ち合わせは急遽、“急造カメラマン”養成の場となった。
 私も若い頃はカメラ片手(もちろん、コンパクトカメラ)に取材に出向いたことはあるが、大型の望遠レンズを使い、ましてや観客席からの撮影は経験したことがなかった。支社は一人が何役もこなさなければならない。幸運かそれとも不運か、私にはそれまで機会が回ってこなかったのだ。
 翌日の下関球場。記者席でスコアをつけずに、50歳の記者は肩にずっしり食い込むカメラとともに、内野席をウロウロしていた。ピントを合わせて、エエッとばかりにシャッターを押す。カシャカシャカシャッ。機械音が響く。記者席と内野席を往復する。狙いは絞った。絞るしかない。エースの野村祐輔だ。(そうです。明治の野村です)1イニングが実に長い。広陵が2点リードのまま、試合を終えてゲームセット。「ベンチ前のナインの表情を撮った方がいいかな」と思いつつ、ベンチ裏で喜びのナインを取材する。ついでに野村にボールを持たせてポーズを取らせる。中井監督も押さえておいた。
 宿舎に帰って写真をチェックし、何枚も送る。これがまた、時間がかかる。なのに、写真部のデスク曰く、「使えるのが少ないですねえ」と冷たい一言。さらに付け加える。「ついでに試合後のヤツもお願いします」
 結局、高校野球が1面となる。ギョッ、明らかにピンぼけだ。ありゃ、試合後の写真も使っているではないか。赤面の至りではあるが、なんとか1面を張れたという充実感と同時に、肩の荷がスーッと降りた。
 「だから言ったでしょう。なんとかなるって」
 「ああ、そうだな」
 5日夜、支社内で再び2人の会話。そう、私は彼にこう言ったことがある。「最近はカメラの性能が上がって技術よりも、使い慣れる方が大事らしいな」
 彼は黙っていたが、私はこの憎まれ口を悔やんだ。確かに性能には助けられたが、結局、ものをいうのは写真を撮る人間のセンスであり、技術だ。それにやる気だ。「やる気はあってもセンスはどうかな。ないわな」東京本社に帰って、机の中に大切にしまってある当日の新聞を眺めながら、私はつぶやくのである。 

009年6月24日
デイリースポーツ東京本社
編集局次長兼写真部長・菊地 順一



6月のコラム

(日刊・福永)
グラウンドにあふれた観客 「1948(昭23)年、後楽園球場で行われたプロ野球東西対抗でグラウンドにあふれた観客」 


 社内事情のはなしで恐縮です。先日、昭和21年の創刊以来ストックされているネガフィルムとベタ焼きアルバムの引っ越しを行いました。恥ずかしながら、弊社編集局はここ10年頻繁に引っ越しを行い、そのたびにネガフィルムなども移動を余儀なくされてきました。このたびやっと“安住の地”を得られ写真資料を余裕あるスペースにまとめることができた、というわけです。弊社でもアナログからデジタルへの移行は以前から進めているのですが、その元となるフィルムなどは保存しています。これらを見ることはとても楽しい作業です。その時代を過ごしたわけでもないのに懐かしさを覚えたりしています。写真からは昭和という時代を感じることはもちろん、スポーツ界、芸能界などの変遷なども読み取れます。デジタル世界で生かされている身にとっては、どれも新鮮です。
また、歴代の先輩カメラマンが残された作品を見てつくづく、味があるな〜、と感じます。選手の表情が生き生きしていたり、写真のきりとり方が斬新です。今、味のある写真がどれほどあるのかといえば疑問符がつくばかりです。より速く現場写真を紙面に反映することができる今の仕組みに文句をつけるつもりはありませんが、手であわせていたピントがオートフォーカスになり、暗室作業がフォトショップになって以降、何かが抜け落ちた感覚があります。無駄を省いたことによって無くしてしまったものがあるような気がします。今後、カメラマンを取り巻く環境はさらに変化するでしょう。もちろん時代が求める変化に対応しなければいけませんが、忘れかけているかもしれないカメラマンとしての矜持は大切にしなければなりません。撮影という行為が単なる作業で終わってしまえば、見る側の共感は得られないはずです。写真資料室を見渡し、歴史を振り返りながら何となくそんなことを考えていました。

2009年5月
日刊スポーツ新聞社編集局写真部長 福永 力
           


5月のコラム

(朝日・山川)
アイ・コンタクト


 新聞記者になって30年近く、20年弱は取材記者、その後の10年ほどはデスクなどを務めました。ペンの記者として写真記者とはタッグを組んで、いくつかの仕事をしてきました。ここに掲げた写真は、その中でも強く印象に残る1枚です。
もう今から15年も前、当時の日曜版のフロントページに大きく掲載されました。撮影したのは同僚の清水隆君(現在は大阪写真センター)です。
 この写真とともに掲載した私の文章はざっと次のような内容でした。
ケニアの首都ナイロビ郊外の路上に、へその緒がついたままの赤ちゃんが捨てられていた。その子は拾われ、孤児院に運ばれた。まったく泣かないので調べるとエイズに感染していた。「すぐに死んでしまうだろう」とみんなが思ったとき、その孤児院の一人の女性看護師がこの子を抱きしめ続けた。数ヶ月して泣き声、そして笑い声が聞こえだした。懸命に生きようとしている。この看護師は、難しい子どもをこうして何人も救ってきた。その力の源泉はどこにあるのか。
写真は看護師と、この赤ちゃんが見つめ合う姿をとらえています。「一番大切なことは何か」という私の質問に、彼女は「アイ・コンタクト」と答えました。清水君は、その言葉が形になる瞬間を逃さなかったのです。文句なく、すばらしい写真です。
記事にはさまざまな反響がありました。NHKの「中学生日記」という番組でドラマの題材となり、教師がこの写真を使って授業をしているシーンを記憶しています。
思えば、このときは別の取材も含め、清水君とは1ヶ月以上一緒に旅をしました。出かける前、旅の最中、私がどんな取材をしてどんな記事を目指しているのか話し、語り合いました。以心伝心とまでは言いませんが、ペンで表現しようとしていることとカメラの呼吸がぴったり合うと、とても気持ちがいいものです。
昨年秋、東京写真センターの一員になり、この欄を担当するにあたって、そんなことを思い起こしました。



2009年4月
朝日新聞東京本社編集局写真センター

マネジャー・写真部長 山川 富士夫



4月のコラム

(スポニチ・森沢)
WBC連覇


 日本が見事にWBC連覇を達成した。決勝戦の相手は、今大会5度目となる韓国だった。これは敗者復活戦が組み込まれるダブル・エリミネーション方式の弊害だったが、主催者側からすれば狙い通りの集客をもたらした。前大会のように失点率で順位が決まるリーグ戦は、見ている側からすれば分かり難いかも知れないが、色々な国の対戦が見られて楽しいと思う。
 試合は延長10回5−3。頂点を決定する試合にふさわしい好ゲームだった。試合を決めたのはやはりイチロー。一夜明けの会見で「本当に美味しいところをいただきました。ごちそうさまでした。」と本人が言っていたが、報道するこちらも「あなたが決めてくれて、本当にごちそうさまでした。」と言いたい。試合直後には新聞各社が号外を出し、テレビ各局の報道番組は“侍ジャパン連覇”を大々的に放送した。そして翌日は、新聞各社が即売を増刷し、テレビ各局は朝からワイドショーで視聴率を稼いだ。
 イチローの活躍は我々マスコミ以外にも2人の男を救った。1人は民主党・小沢一郎代表。この日、政治資金規正法違反の罪で、小沢氏の公設第1秘書で陸山会会計責任者の大久保容疑者が起訴された。小沢氏は党本部で行われた会見で、涙を流しながら代表続投を表明した。もう1人はお笑いタレントの陣内智則。女優藤原紀香と正式に離婚し、都内で会見した。会見の冒頭で、離婚の原因は自らの女性問題と頭を下げた。もし、侍ジャパンの連覇がなければ一般紙は小沢氏を、スポーツ紙は陣内を大々的に報道していたに違いない。
 2大会連続のMVPに輝いた松坂は、試合後のインタビューで「明るいニュースを日本に届けられてよかった。」と言っていた。100年に1度の大不況、紙媒体の低迷の中で本当にうれしいニュースである。スポーツ紙的には、この勢いのまま4月3日のプロ野球開幕、4月6日(現地時間)のMLB開幕、そして石川遼が出場する4月9日(現地時間)開幕のマスターズと盛り上がってくれる事を期待したい。



2009年3月
スポーツニッポン新聞社写真部長
                             森沢 裕


3月のコラム

(毎日・佐藤)
エゾフクロウ   (北の大地 寄り添ってチュ(08年12月28日の毎日新聞朝刊1面)


 日本橋三越で開かれた08報道写真展には、3万人を超える来場者があったそうです。たくさんの感想の中で、朝日新聞の天声人語(08年12月23日付)からは「愛機に添えた指先から、世界を震わす1枚が生まれる。筆にはまねできない一瞬の技、うらやましくもある」とわれわれ写真記者には励みになる一文をいただきました。また、毎日新聞写真記者が撮った秋葉原無差別殺傷事件の空撮写真も高く評価していただき感謝します。大不況、そして新聞を取り巻く閉塞感の中で、少し元気を取り戻しました。私が感じる閉塞感は部数減などの問題の他に、新聞が世間からうっとうしがられているのではないかという不安感からきています。
 たとえば紙面に家族の写真が載ると、昔は記念にプリントが欲しいと電話がありました。でも今は「なぜ勝手に撮ってネットに載せたんだ」というお叱りの電話やメールがほとんどです。以前は歓迎された取材先にもたくさんの規制が課されるようになりました。人権意識の高まりなど社会状況が変化していることも原因でしょうが、どうも新聞が嫌われているんじゃないかと思えてなりません。
 部員からこんな話も聞きました。サヨナラ列車の出発セレモニーで、大勢の鉄道ファンが報道用に仕切られたスペースになだれ込み、取材現場が大混乱したというのです。インターネット時代を迎え誰もが情報の発信者になりました。もうマスメディアに特権的な待遇は認めないぞ!ということなのでしょう。 
 花井事務局長の年頭あいさつにもありましたが、読者が好む写真とわれわれが重視する写真にも、だいぶズレが出てきたように感じます。最近、毎日新聞で一番反響があった写真はエゾフクロウのスケッチ写真です。酷寒の森で暮らすつがいのフクロウに、自分たち夫婦の姿を重ねあわせて、お便りをたくさんいただきました。殺伐とした世の中で、読者が求めているのは、生々しい現場写真ではなく「癒やし」なのかもしれません。

 「新聞に未来はない」とさんざんいわれています。しかし、ネットでも新聞でも媒体はなんであろうとニュースを責任持って取材する部門は不可欠です。地震、津波、戦争、事件、スポーツ、ファッション・・・国会まで、オールマイティに取材でき、世界中どこからでも迅速に写真電送できるノーハウと経験があるのは各社の写真部だけです。いろいろな面で厳しい時代ですが、新聞が愛され信頼されるメディアであり続けるため、日々の取材に真摯に取り組みたいと思います。



2009年2月
毎日新聞東京本社写真部長 
佐藤泰則




2月のコラム

(読売・池田)


深川事件 1981年6月17日、梅雨入り前のカラッとした晴れわたる下町の商店街で、男が通りがかりの母子や児童など6人を殺傷、そのまま通行人の女性を人質に中華料理屋に立てこもっていた。テレビ局は現場からの生中継を始めていて、写真部に配属以来2か月間、朝から夕までを暗室内で過ごしていた私も、所轄の警察署での取材を命じられた。署に着くやいなや、先輩が使い古したぼろぼろのフィルムカメラで、署に出入りする人物や車を手当たり次第に撮り始めていた。当時はフィルムを本社にオートバイ便で送らなければ現像処理できなかったので、写真説明用紙に何をいつ撮ったかは記入していたものの、回りの雰囲気にのまれて何回シャッターを押したかはまったく気にしていなかった。無線機で「殺害された母子の夫が署に入った」とデスクに連絡、しかも「私しか撮っていない」と宣言してしまったあと、カメラのフィルム巻き上げクランクに手を添えて頭がカーッと熱くなった。クランクが何の抵抗もなく回ってしまったのだ。冷たい汗が一筋背中を流れた。今でもあのときの「バカ野郎!撮れるまで帰って来るな」という無線機が壊れてしまうのではないかというデスクの大きなしゃがれ声が耳に残る。男はその後突入した警官隊に逮捕され、下着一枚で報道陣の前に現れた。人質も逃げ出して無事だった。

恥ずかしながら、今から25年以上も前、私の入社直後の大失敗。連続殺傷事件が繰り返されるたびに頭をよぎる。どなり続けていたデスクの声がまた聞こえ、簡単に命を奪う理不尽な犯行や「誰でもよかった」などの容疑者の勝手な言い分への憤りを倍加させるような気になる。

08年の東京写真記者協会加盟の新聞、通信社カメラマンの最優秀作品を決める協会賞は、毎日新聞写真部小出洋平記者撮影の「秋葉原ホコ天で凶刃に倒れる男性」。生々しい現場で救命措置を受ける男性をヘリコプターから撮影したスクープだ。1枚の写真が伝える事実は重い。 現場の最前線から写真ジャーナリストとして事実を皆さんに冷静にきちんと伝えたい。使命感に基づいた熱意をもって仕事にあたりたい。決して仕事に失敗したから憤るが増えるという理由をつけずに。

2009年1月
読売新聞東京本社写真部長
池田 正一


年頭挨拶

(事務局・花井尊)


あけましておめでとうございます。
まず年頭に東京写真記者協会会員の皆様方のご健康とご活躍をお祈り申し上げ、さらにホームページを見てくださっている方々のご多幸をお祈りします。


のっけから自身のことで恐縮ですが、私こと花井尊は、昨年11月から事務局長に就任いたしました。国民の知る権利に応えるべく東京写真記者協会の発展に微力ながら寄与し、協会の運営を公平公正に運ぶ所存です。どうぞよろしくお願いします。
昨年暮れ、日本橋三越本店で開催した「2008年報道写真展」は、朝日新聞「天声人語」や各紙コラム等、また日本テレビ「ズームイン!SUPER」を始め各局で放映され、さらに麻生首相来場の効果もはたらき、会場入り口のカウント数が2万4千人を超えました。出展数が255点で会場が左右2か所になり、実際見ていただいた方々は約3万人を軽く超えたでしょうと三越側の話です。報道展実行委員をはじめ協力いただいた方々に厚くお礼申しあげます。
その報道展で、自由に感想を書いてもらうノートを置いたところ、満開のカワヅザクラ、花火などのスケッチ写真に多くの関心と問い合わせをいただきました。自分としては正直言って意外でした。これまで新聞社で「ニュース写真で勝負」と粋がっていた自分にとって、反応に若干のずれを感じたのです。


事件事故はもとより四季折々のスケッチ写真も読者に対する大切な情報提供です。報道カメラマンは現場に一番近いジャーナリストです。もちろんニュース写真が王道であり、ジャーナリストとしてさらに真実を追求していくことは当たり前のことです。しかし、混沌たる世の中で恐らく読者はどこかでホッとするもの、季節を肌で感じる写真をわれわれ以上に多く求めているのかも知れません。
さて、昨年は北京五輪、日本人4人のノーベル賞と沸いたニュースもありましたが世界金融危機、無差別殺傷事件、福田首相突然の退陣などおもわしくないニュースが続きました。今年は皆さんがどんなニュースを時代の目撃者として追うことになるのでしょうか。黒人のオバマ米大統領誕生、ワールド・ベースボール・クラシック開幕、裁判員制度がスタートします。しかし何といっても総選挙の年です。そして政界再編はどのような形を見せてくれるでしょうか。目が離せません。
ジャーナリストとして、恐れず、ひるまず、一枚の写真を通して社会の発展、希望あふれる年になるよう寄与していただきたいと期待しています。


2009年元旦
東京写真記者協会
事務局長・花井尊